ジム・ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』

平日の昼間にDVDの上映にわざわざやってくる人などいないらしく客は僕一人でした(笑)


観ればわかるとおりこの映画では一切何も起こらない。
何も起こらないけれども物語は確実に動いている。
この「何も起こらないけれど動いている」という状態を説明するのがちょっと難しい。


まず主人公3人の関係の記述が難しい。
ウィリーとエヴァはそれまで会ったこともない従兄妹同士で、エディーとウィリーは友達である
、とまぁここまではいい。
しかしこの3人がどういう力関係で、お互いどういう感情を抱いているのか。
それを書き出そうとすると言葉につまっちゃうわけです。


NYからわざわざクリーブランドまで訪ねていくのだから、ウィリーがエヴァに何かしらの好意を抱いているのは確かなように見えるけど、彼女を置いてドッグレースに出かけてしまう二人が彼女のことを大切に思っているとはとうてい思えない。


「こうだ」と指し示すことができるような関係は存在しないが、お互いどうでもいいと思っているわけではないし、消え入りそうな刹那的な関係というわけでもない。
それはうまく言い表すことができないだけで、彼ら間に何かしらの感情が確かに存在することは、例えば3人が何をするわけでもなく浜辺を歩くシーンなどにありありと感じられる。


それから、物語の動かし方の微妙さ。
数分で区切られるエピソードの終わりは必ずブラックアウトして、各エピソードは切断が強調されて大きな物語が展開することのないように作られている。
例えばエディーはエヴァがウィリーにもらったドレスを捨てるところを見るのだけれど、それをウィリーには言わないし後でそのことが話題になることもない。
しかしこのエピソードは完全にそこで終わってしまうようなものではなく、エディーがウィリーとエヴァの2人の関係を見るときの視線に何かしらの影響を与えていることは確かだと思うのです。


この映画の「何も起こらなさ」というのは、図式化すれば「AがBした結果Cが起こった」というような強い因果関係が一切ないというふうに要約できる。
しかし、繰り返すが、本当に何も起こっていないのではなくて「AがBした。次にCが起こった。BはCに何かしらの影響を与えている」というような形で物語は確かに動いている。


この映画は、求心力のある強い物語(宇宙人来襲、殺人事件、運命の恋...etc)を語るときには微妙すぎて無かったことにされてしまうような些細な出来事や感情を拾い上げ、それら「だけ」で作り上げられた物語だと言えるわけです。


小川紳介は「三里塚闘争」のような求心性の強いドキュメンタリーを撮る一方で、東北の農村に移り住んで人々の生活を写したドキュメンタリーも撮っている。
大島渚のインタビューで小川は「両方やらないと嘘になる」と言ってるんですが、彼が撮る「東北の農村」にあたるものこそがこの映画でジャームッシュが描きたかったものなのではないでしょうか。