野生の思考

芸術はしばしば「理解できる/できない」のレベルで論じられてしまう。
他者に観られることで成立するものなのだからこれはある意味で正しい。
その「他者」とは誰のことなのかが問題になるのだ。


このような問いが立てられてしまうのも、しばしば理解できない芸術作品が作られるからなのだが(笑)それに対して「誰にでもわかる作品」を作ることは問題の解決にならない。
ただし、万人に受け入れられるような作品を作ることが間違っているのではない。
「わかる」という語が問題なのだ。


このとき、はるちゃん(7ヶ月)やポチ(←誰?)のような自分と明らかに異なるロジックで生きる存在を想定するとわかりやすい。
そもそも赤ん坊や動物の思考に「わかる」などという機能があるかどうかよくわからない。
にもかかわらず彼らとコミュニケートすることは可能だ。
芸術も含めて、コミュニケーションはそのレベルから考えられなければならない。


適切な語かどうかはわからないが「わかる/わからない」ではなく「通じる/通じない」のほうがよいのではないかと思う。
「子供にもわかる」と言うとき、小さな子供でも持っている「理解する能力」が前提にされている。
「誰にでもわかる作品」は、はるちゃん(7ヶ月)やポチには通じない。
万人に開かれているように見えて、実は数が多いだけで閉じられているのだ。


高橋悠治は「人類が滅亡した後に生まれる新しい知性のための音楽」なんてものを書いてましたが(笑)それが外部に向かう限りにおいては、たとえ誰一人にも理解されなくてもよい。
逆に、たとえ1千万人がCDを買ったとしてもそれがある種の前提を共有していることを要求されるような閉じられたものである限りそれは自己模倣であり独善的であることを免れないだろう。
何がいけないって、それこそがファシズムの論理だからだ。


はてさて。
またも繰り返しになるが、僕たち大人の人間は、赤ちゃんの思考や野生の思考を忘却し、言葉の世界を受け入れることで成立した存在だ。
フロイトによれば忘却は消滅ではなく、野生の思考は無意識の中で生き続けているわけだが、それを僕たちは意識することができない。
僕たちがそれを取り出そうとするならやはり抽象的に言葉で「理解する」しかないのだ。


「音楽は頭で理解するものではない」という輩が銃殺ものであるとして、逆に「理解できるものがすべてである」などというニヒリズムも共に退けなければならない。
決して完全には理解できないものについて思考し続けることのみが芸術の役割なのである。