ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ

友達のベイビーにあげようと思って谷川俊太郎岡崎乾二郎の絵本を買ったんだけど、これがまぁすごいのなんのって。
「ぶん 谷川俊太郎」ってなってるけど、「はぴぷぺぽ」しか使ってなくて全然「ぶん」じゃないのね(笑)


岡崎さんの絵も「生き物のように見えるもの」は描かれていても、何かを象徴するような(つまり「これは○○である」と名指せるような)ものは一つも描かれていない。
言葉はもちろん、絵本の絵は犬なり車なりといった具体的なものを象徴した記号である場合が多いわけだけど、この本は「ぶん」も「え」も言語によって分節化される前の未分化な世界をダイレクトに描いているかのようなのです。


で、はるちゃん(7ヶ月)と会ってきたわけなんだけど、まぁこの子がすごい。
すごいって言っても普通の子だから、要するに「赤ちゃんはすごい」って言いたいだけなんだけど。
ヤツには言葉が通じないんですよ!
なのにコミュニケーション不可能ってわけじゃないんですよね。
お互い相手が何をやっているのかわからないけど、とりあえずコミュニケーションはしている、という状態が面白い。


そもそもヤツらには「相手が何をやっているのか」という思考があるかどうかわからない。
絵本の話に戻すなら、「ぽぱーぺ」は「ぽぱーぺ」であって犬や車ではないというわけ。
赤ちゃんは「ぽぱーぺとは何か」なんて考えない(想像だけど)わけだから、こちらもそれを前提にしてはならない。
この発想は大人にはなかなか難しくて、何かわからないものがあるととっさに「これは何か」と問うてしまう。


「これは何か?」
「これは犬だ」
このとき、「犬だ」と言ってしまったその瞬間に目の前にある具体的なモノは「犬」という象徴的記号に統合され具体性を奪われてしまう。
アーティストってヤツはこの「犬」という語の象徴性と「目の前にいるこれ」の具体性を常に意識しないといけません。
ただし忘れてはならないことが一つ。
大人の世界はすでに言語によって分節化されてしまっているということ。


言葉になる以前の、表象不可能な具体性は重要です。
この重要性は強調しすぎてもしすぎることはない。
けれども、だからといって「音楽に言葉はいらない」などというヤツは銃殺ものです。
人間(大人)は言語を介してしか世界と触れ合えないのだから。


谷川俊太郎岡崎乾二郎も「言葉とは何か」「絵とは何か」について、うんざりするほど象徴的な大人の言葉で考えている人たちです。
そのうんざりするような思考をふるいにして、そこからこぼれ落ちる具体的な、言語以前のものを拾い上げることができるわけです。