ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』

この映画は脱中心の映画だと言えようか。
中心がないのではなく、中心が絶えず無化される映画なのである。
野良犬が駆けまわる冒頭のいくつかシーンでは、まず画面中央に数匹の犬を捉え、そこに黒い犬が画面の外からフレームインしてくるシーンが、場所と構図を変えて何度も繰り返される。
万事がこの調子で、画面上の唯一つの対象に焦点が当てられるようなシーンがただの一つもなく、何かが映された次の瞬間には、あるいは同時に、何か別の対象が様々な方法で侵入してくる。


これは例えばジェラールたちのいたずらに顕著だ。
彼らは、誰かにいたずらを仕掛けてそれをちょっと離れたところで観察して楽しむ。
通行人が外灯の前にさしかかったところで口笛を鳴らし、それに気をとられた通行人が外灯にぶつかる。
信号待ちの車の後ろのバンパーを思いきり踏んで、追突されたかのように錯覚させる、などなど。
ここでは子供たちのいたずらと、仕掛けられた通行人の反応という二つの出来事が同じ画面に捉えられ、その両方に焦点が当てられている。


ユロ氏が歩いていれば、道端には掃除をしている人や買い物をしている人がいる。
その人々は単なる風景というではなく、そこでカメラがいったん止まってその通行人たちをを一時的な主役に据える。
と言っても掃除のおっさんが画面の中心になるわけではなく、ジェラールの家に向かうユロ氏のアクションは持続しているため、アクションが二つに分裂するというわけだ。


このとき、ユロ氏が画面の外に出てしまう場合もある。
上述したいたずらのシーンでもそうなのだが、画面にユロ氏やジェラールたちが映っていなくても、彼らの起こしたアクションが画面外で持続していることが観客に意識されているため、そのとき画面に映っているもの(掃除のおっさんやいたずらを仕掛けられた人)が唯一の中心にはならずに、画面内の出来事と画面外の出来事の二つ(あるいはそれ以上)が同時に把握されている。


また、それと似たようなこととして、画面には映っていないものの出す音が対象を複数化する場合もある。
例えば窓ガラスに反射した光で向かいの建物の鳥がピーチク鳴くシーン。
ユロ氏が窓を開け閉めするたびに、鳴声が聴こえたり止んだりするのだが、タネあかしがされるまでの間、鳥は画面には映っておらず鳴声だけが鳴っている。
が、このときも鳴声によって画面の外に何かがあるということが明確に意識され、窓を開けるユロ氏とそれに反応する鳥という二つの出来事が同じシーンの中に納まっているわけだ。


関係ないけど、このような音の分析はミシェル・シオンの『映画にとって音とはなにか』に詳しい。
「映画は映像だ」なんて思っちゃってる人に読んで欲しい本だ。とても面白いから。
「映画は映像+音響だ」ということがよくわかると思う。


話を戻しつつまとめますと。
そのような脱中心化は映画全体をも規定している。
あらすじとして要約できるようなストーリーなどなく、小さなエピソードの積み重ねだけで出来ている物語がまず脱中心的だ。
そして、どっかりと画面の中心に腰を据えることなどなく、いつもどこかへするりするりと逃げてしまうユロ氏がこの映画を体現した存在であることは言うまでもない。