アンヌ=マリー・ミエヴィル/ジャン=リュック・ゴダール『ゴダールのマリア』

「そんな小さな幸福 わかちあうあなたはいない」のは相変わらずだが、
過去2回ほど観ているはずで、完全に忘れていた自分に驚きなのだが、
『マリア』は、ゴダールの『こんにちは、マリア』のエヴィルの短編『マリアの本』の2本からなる映画で、最初は『マリアの本』からはじまるのだった。


このミエヴィルの短編だが、
主人公の女の子マリーが別居する父親の家から帰るシーンとか、
家に帰って、父が聴きたがっていたレコードを聴きながら一人で暴れるシーンの繊細な描写が、いかにもゴダールらしくない(当たり前だ)


で、これが2本の映画からなるというのを忘れており、これをゴダールの映画だと思って観ていた僕は「ゴダールがこんな繊細な映画を撮るとは!」と驚いたのだった(笑)
そしてそれがゴダールの映画ではないと気付いたとき、改めてゴダールの無骨さについて考えさせられた。


『アワー・ミュージック』に、聖母を見たという少女の話が出てくるが、
「深みも技巧も欠いたものの持つ聖性」とはゴダール自身の映画について言えるのではないか。
ものごとの持つ深さに決して入り込むことなく、徹底して表層だけを撮ることで得られる崇高な美しさ。


キスを迫るジョセフに対し「するときは自分からする」と言うマリーには『マリアの本』の幼いマリーとは対照的に、少女の繊細な感情の揺れなどというものとは無縁である。
「愛している、マリー」という彼に対し「ウィ」か「ノン」かでしか応えない彼女に「愛している/していない」の間の両義的な領域などありはしない。


近年の作品に顕著なゴダールの撮る顔も、その人の人生や内面と言ったヒューマニスティックな要素がすべてそぎ落とされ、物質としての人の顔が、肉体の中でも最も「人間的」な表情が現れる顔がただの物質として存在してしまうということが観るものを慄然とさせるのではないか。


『マリア』に挿入される数々の風景のショットも、そこに意味を見出すべきものではない。
それらは純粋な発光と反射の光学的な現象として見るべきものである。
処女懐妊という超自然的な現象に意味を求めずにはいられない人々にとっては、
それを単なる出来事として徹底して扱うこの映画は我慢がならないものであったのだろう。
しかし意味など求めなくとも物語は語れるし、映画は撮れるのだ。