ジャック・ドゥミ『天使の入江』

ティーチインでラランヌも言ってように、ドゥミの人生が投影された映画である。
60年代のドゥミはハッピーエンドではないものの、愛の賛歌とでも言うべき映画を撮っているが、
この映画は、愛し合う男女を撮ってはいるものの、最後まで気だるく退廃的なトーンが漂っている。
まぁジャンヌ・モロー主演という時点で、気だるく退廃的な映画になるのは目に見えているのだが(笑)


ランヌは『シェルブール』が「時間の円環に閉じ込められた映画」なのに対し、これは「時間の円環の中から抜け出す映画」と言っていた。
確かにラストで二人はカジノを出てパリに帰るところで終わるのだが、僕には、ジャンがジャッキーを救い出したとはとても思えない。


ジャッキー自身がその直前で言っていたように
「私は賭けをやめられない。一緒に暮らしても傷つくだけ」なのではないのか。
ラストショットでぷりぷりとケツを振って歩く彼女を見るに、ジャッキーがこの後ローラやジュヌヴィエーヴのような家庭的な幸福を選ぶなどとは思えないのだ(笑)


かようにこの映画には不幸の影が常にまとわり付いている。
二人が愛を交し合うシーンでも、勝った金で派手に遊ぶシーンでも、それが泡沫のようなものであることを意識させられながら観ることになる。
これはモローの「不幸顔」のせいもあるが(しつこい?)やはり「賭け」というテーマに関わるだろう。


最初に述べたようにこれは人生の映画でもあり、つまり人生とは賭けのようだということでもある。
芸術でも、愛でも、科学でも、金でも、人は最終的には何の根拠もありはしないものを信じて生きるしかない。
何万回愛の言葉を囁かれようとも、覆しようのない科学的実証がされようとも、何億ドルの現金があろうとも、信じるという行為においてその無根拠さは変わらないのだが、
賭けという場面においてはそのことが最も鋭く表面化する。


「5がくるって確信があるの」と言うジャッキーに何か根拠があるわけではない(当たり前だ)
例え本当に5が来てもそれは彼女の正しさを何ら保証しない。
そして上で述べたように、このことは愛についても、人生についても真実なのだ。


ドゥミの同時期の他の作品では、何の保証もないまま無根拠に愛を信じることが賭けられており、
そしてそのような愛の美しさが讃えられているのだが、
この作品では根拠がないが故の愛の過酷さが全面を覆っており、愛についての作品であることに変わりはないのだが、悲愴で絶望的な香りのする映画になっている。
明日をも知れぬ身だからこそ懸命に「今ここ」に賭ける彼女を、愚かとだと知りつつも美しいと思わずにはいられない。