ライブ・ミュージックの可能性

音楽は時間芸術である。これはまぁ普通に考えればわかる。
誤解されがちだと思うのは、音楽は「今ここ」に現れて消えていく音による「現前性」の芸術では必ずしもないということだ。
(「必ずしも〜ない」であって、現前性とは無関係ということではないのでご注意を)


前にも何度か書いているけれど、メロディ、リズムは、現在を軸に考えるならば、すでに鳴らされた(過去の)音と今まさに鳴っている(現在の)音、これから鳴らされる(未来の)音との関係においてのみある。
そいういう意味でメロディ、リズムは「現前」ではなく「想起」に属する。
言い換えればメロディ、リズムは現在という時間には属していない。


ベルクソンドゥルーズによれば、時間とは、瞬間の集積に解消されてしまうようなものではなく、流れとしてのみ捉えられ、分割すれば別のものになってしまうようなものだそうである。
時間芸術である音楽もまた、流れとしてのみ捉えられ、一つ一つの音の集積には解消しえず、もし区切ったりすればそれは別の音楽になってしまうようなものなのである。


音楽は現前ではなく想起を本質とするのだから、
例えば「昨日聴いた曲を今思い出すこと」も「想起」という点から考えるなら間違った音楽の聴き方とは言えない。
それを「聴く」と言えるかどうかは微妙だが(笑)実を言えば「聴くこと」が唯一の音楽鑑賞の方法ではない。例えば読譜とかね(僕にはできないけど)


録音メディアの登場以来もはや常識と化した感があるが、ライブ・ミュージックも音楽の本来的な姿というわけではない。
誤解のないように言っておくが「聴くこと」も「ライブ」もそれが音楽を享受する形態として間違っているわけではもちろんなくて、ただそれらは可能性の一つに過ぎないと言っているだけである。


むしろ誤解されがちなのは、最初と同じになるが、
ライブ・ミュージックにおいても「今ここ」の現前性は本質的ではないということ。
今鳴っている音を聴いているだけでは音楽にならず、過ぎ去った音を想起することなしに音楽が音楽として成立しないのはライブにおいても同じだからである。


もう一度ドゥルーズを引き合いにだすなれば、
ライブ・ミュージックの可能性は音楽の生成過程の経験にこそあると言えるのではないか。
もちろん現在という瞬間には解消されえない流れの中での経験である。


と、ここまで書いて根本的な疑問が!
音楽の生成過程はCDを聴きながら経験できないことなのかどうか。
つまり、CDを聴くという行為は、音波でしかないものの中から流れを聴き取っていく能動的な行為であるとも言えるからだ。
それは音楽の生成過程であると言って差し支えないような気がする。


そうなるとライブ・ミュージックの可能性はどこにあるのか(笑)
僕自身、CDとライブでは明らかに経験の質が違うということはずっと感じていて、それを上手く言い表す言葉を見つけたと思ってこの文章を書き始めたはずなのだが…


最後に来て「今後の課題」ということで終わってしまいました(笑)
まぁそういうわけですので、みなさんも考えてみてくださいませ。