ジャン・コクトー『美女と野獣』

待ちに待ったフランス映画祭ジャック・ドゥミ特集。
しかし平日の昼間とはいえ客が30人くらいとはどういうことか。
シュミットもギドクもあんなに大入りだったのに…。


コクトーの才は物事の本質、ないし特質を捉える能力にあると言えようか。
本質という言葉は好きじゃないので特質としておきますか。
扉は開いたり閉じたりするもの、蝋燭はともすもの、布とは揺れるもの。

こう書いてしまうとごく当たり前のことなのだが、そう言われて気付くのとそれを自分で見出すことはまったく異なるわけで、それを「発見」したコクトーは偉い。
そしてコクトーは独自のやり方で映画の特質をも正確に捉えている。


コクトーにとっての映画とは「連続する画像の錯覚によって紡がれる物語」とでも言えようか。
単に「映像」と言わずに変な言葉を使ったのは、コクトーの映像が変だからだ(笑)
世界をありのままに捉える映像ではなく、写真を連続的に映写することで作り上げられるテクノロジカルな産物であるということが明確に意識されているのだ。
(おそらく今生きていればデジタル技術を使ってわけのわからないものを作った
はずである)


まるで動いているように見える写真の連鎖の中に、どのようにして運動を刻み付けるか。
それは本質的に錯覚であり虚像なのだから、ありのままの世界などを撮っても面白くない。
そこで自らの力で自動的に開閉する扉、自動的に点いたり消えたりする蝋燭、勝手に走る馬などといっためくるめく魔術的世界が呼び出される。


そして虚像であることが前提になっているこの世界では、スローモーションや逆回しといったトリック撮影を全面的に導入する。
マジックのイリュージョンはそこにトリックが「ある」ことを隠さないが、そのことはショーの幻想性をまったく損なわず、逆にそのトリック自体をイリュージョンにしてしまう。
同様に、全面的なトリック撮影は、この物語がフィクションであるという自己言及にもなっているのだが、自己言及がシニカルなものにはならずに魔術的世界のフィクション性を臨界まで高めている。


マルチ・アーティストとして知られるコクトーだが、
多くのジャンルで大成したというより、様々なジャンルでアートプロデューサーのような才を発揮した彼は芸事よりも眼力にこそ真価があったのかもしれない。
まぁ詩も小説もあまり読まないのでよく知らないのだが。
しかし、ともかく映画作家としてのコクトーは掛け値なしに素晴らしい。


はてさて。
このコクトーの「魔術」がドゥミの「おとぎ話」に直結している。
あのスローモーションは『ローラ』で、台車撮影は『シェルブール』で、ドレスで走るとこは『ロシュフォール』で、最後に空飛ぶのは『ロバと王女』で…とあげていけばキリがない。
ドゥミの映画はすべて『美女と野獣』だと言ってもいいだろう。


もひとつ関係ないけど。
ディズニーのアニメ版とのもっとも大きな違いは、野獣がまさしく野獣であることだろう。
「私は善良だ」とか「彼は優しい人」とか言うセリフはあるが、実際は全然優しくない(笑)
ベルを本当に愛していること、彼自身が自分の獣性に苦しめられていることはわかるが、それと「優しさ」は別である。
優しさを感じる描写など一つもないぞ。
まさかあの真珠の胸飾りのプレゼントが優しさじゃねーだろうな。


身も心もケダモノの男を「なぜか」愛してしまうという意味ではギドクに似ている。
いや、ギドクが似ているというほうが正確だろう。
キム・ギドクの映画もすべて『美女と野獣』なのである。
まぁ彼の映画の主演女優は僕にはあまり美女には見えないが。