成瀬巳喜男『流れる』

田中絹代山田五十鈴高峰秀子杉村春子と豪華絢爛な役者陣。
この4人が同じ画面に納まっているというだけでうっとりである
…と言いたいところだがこれは嘘で、役者を揃えれば誰でもこんな映画が撮れるわけではない。
むしろ普通なら逆の事態が起こる。


スタートレックには7人のレギュラーキャラクターがいて、
200話以上もあるTVシリーズでは、それぞれのキャラクターが掘り下げられて実に味わい深いドラマになっているのに対し、
映画版は、基本的にそれぞれのキャラがどういう人物かを知らない「一見さん」の観客に向けて作られており
(例えばデータ少佐はアンドロイドだという無駄な説明描写が必ず入る)
さりとてシリーズのファンも観る以上は7人全員を活躍させないわけにもいかず、
結果、初めて観る人にも往年のファンにとっても中途半端で騒々しいだけの映画ばかりになってしまっている。


何が言いたいのかと言えば、7人ものキャラを2時間の中でキャラを立たせつつ活躍させるのは難しく、同様に、4人のトップ女優を全員魅力的に描くのも難しいということだ。
オールスターキャストの映画があまり作られず、作られてもあまり成功しないのは、そんなのは大体が企画倒れに終わるとわかっているからである。


しかしこの映画は4人のトップ女優たちが、それぞれの代表作にも劣らない輝きを見せてくれる本当に稀有な映画なのだ。
田中の清楚できびきびとした清潔感、山田のしゃなりとした弱さとそこはかとない哀愁、
杉村のお調子者っぷり、高峰の凛とした強さ、岡田茉莉子のビッチな可憐さ、栗島すみ子のドス(笑)
田中の魅力が山田の魅力を引き出し、山田が田中を引き立てもする、という相互作用が上手く成立しているのだ。


登場人物たちはみな、独立しつつ連帯する人々である。
同じ芸者屋にいても、一枚岩ではもちろんなく、それぞれが別の思惑を持っており、それぞれがそれぞれに対して一言胸の内に秘めていたりもする。
田中がどんなに従順な女中に見えても、山田がどんなに人に流され易かろうとも、彼女たちは独立した人間として生きており、最終的にはそれぞれにわがままを通そうとする。


一方で、画面手前で一人寂しく三味線を弾く山田の悲しみに、奥を通り過ぎていく皆が言葉を交わさぬままに感染し、それぞれが自身の運命に想いを馳せるシーンや、
真面目な田中が、杉村と一緒に笑いながらにつまみ食いをしたり、岡田のするように猫をぞんざいに扱ったりするシーンに、彼女たちのあくまでもささやかな共感と連帯が見える。


常に「自分であること」を辞めないながらも、常にお互いに共感しささやかであるがいたわりあうキャラクターたちに、
トップスターとしてそれぞれに君臨しながらも、我を押し通すだけでなくお互いを輝かせあう女優たちの連帯がシンクロする。
そして、そのような場をさりげなく、しかし鮮やかに描き出してしまう成瀬の演出に改めてうっとりとしてしまう。


関係ないけど。
この上映は「日本女子のソコヂカラ」と題された「着物映画」の特集の一本である。
そのせいかどうかは知らないが、いつもとは客層が違い、
「あれは玄人(芸者)の着付けだから」とロビーで話してる着物マニア?と思われる方もいた。


着物を着て観ている若い女性もいてびっくらこいたのだが、
チラシをよく見たら「着物で来館されたお客様にプレゼント」とあった。
男でも紋付袴で行ったら何か貰えるのだろうか…持ってないけど。