キム・ギドク『うつせみ』

ギドクの映画の登場人物が喋らない理由については考えるだけ無駄ではないかと思わないでもないのだが(笑)
とりあえず、ある種の制約を作ることによって、映画内で「出来ること/出来ないこと」をはっきりと分けてしまい、
それによって出来なくなることをバッサリ切り捨てる代わりに
出来ることの可能性を最大限汲みつくそうという試みではなかろうか。


この映画では喋らないことによってコミュニケーションが純化されている。
喋らないでコミュニケーションとはこれまた大変な制約だが(笑)
だからこそ出来る表現によって成り立っている映画なのだ。


主人公・男はピッキングして侵入した家の家主の洗濯物を洗濯板で洗うのだが、
男に連れ去られた主人公・女もやがて同じことをする。
成金の夫に暴力を受けていたらしい女の顔の傷がだんだんと薄れ、
ほとんど消えたと思ったときに男はボクサーに殴られ女と同じ傷を負う。


行為の感染も傷の感染も、何かを象徴しているというよりは、
傷が女から男へ伝えられたコミュニケーションの一種だと言うべきだろう。
それら行動の意味や理由はどうでもよい、
というか、意味がないことこそが重要である。


男が女の傷を共有し、女が男の行為を反復することによって、二人の間に目に見えない何かが形作られていく(やはりそれは「愛」と呼ばれるべきだろうか)
彼らにとって行為の内容には価値がなく、
その行為が男から女へ感染こそが彼らの欲したものなのだ。。
コミュニケーションとは本来的に、意味を伝えるものというよりも
伝達したという事実こそが重要なのである。


しかし、コミュニケーションは美しいものばかりではない。
男にからかわれるたびに逆上する看守は男とのかくれんぼを楽しんでいるようにも見えるし、
成金の夫は、男が釈放されることに怯えながらも彼が現れるのを待ちわびているようだ。
彼らの間で交わされた暴力もまたコミュニケーションの一種であり、それは愛によく似ている。
そんなどす黒さがギドクのたまらないところだ(笑)