曽根中生『不連続殺人事件』

これは自己言及的な映画なのだが、
単なるメタフィクション的な図式が導入されているだけでなく、
それが物語の形式と見事に一致しているところが面白い。


この映画にはほとんどアップのカットがない。
6人もの人間が殺され、総勢20人近い登場人物(ほとんどが容疑者でもある)が出てくるこの映画では、
どのシーンをとっても、やや引いたカメラのフレームに何人もの人物がところ狭しとひしめき合っている。


そして彼らは、「群集」と呼ばれるような同じ行動原理で動く集団ではなくて、
一人一人が別の目的を持っていたり、中にはただそこに居るだけの人物もいたりして、
大概がてんでバラバラに動いている。


昨夜の殺人について問い詰めている人々がいるすぐ横で
まったく関係ないおしゃべりをしている人がいたりするのだ。
(アフレコなので当然わざと入れられたおしゃべりだ)
そしてこの人々の「不連続性」は題名の「不連続」を象徴している。


内田裕也が夏順子を殴打するシーンでは、
内田が怒り狂う原因もよくわからないし、
夏がその場にいる人々に助けを求めずに人の居ないほうへ逃げるのが不自然で、
「よくわからない演出だなぁ」と思いながら観ていたのだが、
最後の謎解きで探偵役の小坂一也がこの二人の行動の不自然さに言及し、
それを手がかりに事件を解決するにいたって、
演出の謎が事件の謎でもあるという構造に驚かされる。


ちなみに、僕は読んだことがないのだが、
原作を読んだことがあるウチの同居人はもこの箇所の描写には不自然さを感じたそうで
「ちょっと変だけど文学的な表現なのか知らん?」と思いながら読み進み、
最後にどんでん返しを食らった、と言っていた。


劇中の事件は、不連続で無関連に見え、
田村高廣は「別の犯人が二人いるんじゃないのか?」などと言ったりするのだが、
その不連続さは犯人の意図によるものであり、結局は同一犯である。
しかしこのからくりも、てんでバラバラに起こる出来事に見えるが製作者がすべて背後で動かしている、という虚構性への自己言及となっているのだ。


田村高廣演じる八代は原作では語り手らしいのだが、
この映画には語り手など必要なく、ワトソン的な役割も担っていない彼は、
主人公のくせに本当に何をしているのかさっぱりわからないのだが(笑)
そんな彼の無力さもまた映画を前に何もできずに翻弄され続ける観客にシンクロしているのだ。
まったくもってお見事である。