トム・ジョンソン作品演奏会

音楽の三要素、リズム、メロディ、ハーモニーのうち、
ハーモニーは同時に鳴っている複数の音同士の関係に、
リズムとメロディは前後の音との関係によって成立する。


「音楽は音そのものではなく、音と音との関係を聴くものである」と言うこともできる。
「言うことができる」ではなく「言うことも」であることに注意されたい。
それは一つの可能性であって、そうではない音楽はたくさんある。


重要なのは「美しい音響」であることは「美しい音楽」であることの必要条件ではないということ。
それを最も端的に示したのがケージで、彼によってベートーヴェン以来の西洋近代音楽が終わり、
それによってあらゆる種類の音楽の可能性が開かれた。


残念ながら現在、世界中のありとあらゆる音楽が西洋の古典和声に支配されているが(恐ろしく便利で使わずにはいられないのだ)
逃れる道はどこにでもあるし、支配されたフリをしてそこから逃れる方法だってある。


ジョンソンの曲は「音響としてのここちよさ」を意図的に捨て、
純粋に音と音との関係を経験することに主眼が置かれている。
自己言及的なテキストに見られるように、
それは単に「聴く」のではなく、能動的に経験することなのだ。
それは音楽としての美しさを捨てることではない。
ここちよい響きだけが美しい和音ではなく、
ここちよい音の連なりだけが美しいメロディではないのだ。


純粋に数学的に関係付けられた音の組み合わせは、音響としてはまったく退屈である(笑)
が、カントに倣って言えば、それは快感原則を乗り越えた地平にある「崇高」なものを体験することなのだ。
彼の音楽は不快で、かつ美しい。


とはいえ、音程のないスピーキング・コーラス『1 2 3Part III』は、普通に音響的にもかっこいい。
それがジョンソンの主眼ではないのだと思うのだが、「かっこいいこと」と「純粋に関係的であること」は矛盾しないのだから別によいのだ。


関係ないけど昨日の続き。
やはりトム・ジョンソンとメガデスの間に共通の美を見出すのは難しい。
「共通の美」という問題設定が間違っているのではないのか。
彼らがそれぞれにもつ「美」の「違い」を説明する言葉こそが音楽の普遍性に近づく道なのではないか。
まぁ思いつきなので明日にはまた覆すかもしれないけれど(笑)