ダニエル・シュミット『ベレジーナ』

シュミットは蓮實重彦が「73年の世代」と呼んだ作家の一人である。
73年とはジョン・フォードが死んだ年であり、
つまりは映画の黄金時代が終わった後に映画を撮り始めた世代だということだ。
…とまぁ本を読むとそう書いてある。73年には僕は生まれてないのでよく知らないのだが。


イーストウッドが、ヴェンダースの撮るフォーグラーが、アンゲロプロスの撮るマストロヤンニが、
そしてシュミットの撮るイングリット・カーフェンやペーター・カーンが、
どうしようもなく孤独で絶望的な表情をたたえているのは彼らが映画の死を、終わりのあとの黄昏を生きる存在だからである。


『季節のはざまで』では今まで笑ったことなどなかったカーフェンが笑顔を見せる。
そしてこのシュミットの遺作『ベレジーナ』はコメディである。
これは単にシュミットがそういうものを撮りたくなった、などという話ではない。


シュミットは生涯にわたって虚構の作家であったが、
カーフェンやカーンが、それが虚構だと知りつつ信じることに賭け、骨身を削ってその虚構を生きることを選択したのに対し、
この映画の主人公である無垢なロシア娘は、虚構を虚構とも知らず、さもそれが当然であるかのように悠々と画面の中に生きている。


自分が娼婦であることも知らず、SMプレイを友情だと信じ(笑)、自分がクーデターを起こしたことも知らぬまま本物の女王の座に収まってしまうエレナ・パノーヴァにはカーフェンのような孤独も絶望もない。
苦し紛れに口にしたでまかせが本当になり汚職事件を暴いてしまう彼女は、虚構を現実として生きている。


彼女はカーフェンやカーンが住まう悲しみの領域を抜け出て、
かつてジョン・ウェインキャサリン・ヘプバーンが生きた世界に足を踏み入れたのだ。
シュミットは生涯の最後でフォードやホークスのような楽天性を手にしたのだとも言える。


もちろんこれは世紀末を支配していた(そして今も続く)絶望の中で撮られたものであり、ヴェンダースの『ベルリン』のような、あえて選ばれた選択的な楽天性と言うべきものだ。
つまり、シュミットも『ベルリン』の後のヴェンダースのようになってしまう可能性があったということなのだが、そんなことを言ったところでどうしようもない。
あのラストシーンのような花火を最後に打ち上げ、一本の駄作も作らぬまま逝ったシュミットを褒め称え、改めて冥福を祈りたいと思う。