マリー=クロード・トレユ『合唱ができるまで』

ドキュメンタリーは何を撮りたいのかがはっきりしていたほうがいい。
それにはタイトルも重要だ。
エドワード・サイード OUT OF PLACE』とか『ジョン・ケージ』とか、
イードやケージの何を撮りたいのだあんたらは、と言いたくなってしまう。
そして実際に内容もそんな感じなのだ。

その点『合唱ができるまで』とはなんとわかりやすいタイトルか。
(フランス語はわからないが、原題『Les Metamorphoses du choeur』も似たような意味だろう)
トレユの明快な意志が感じられるではないか。
そしてその意志こそが作品を支える背骨となるものなのだ。

もちろん「何を作りたいかは作る過程で掴んでいくものだ」という考え方は正しい。
対象がこちらの作りたい物からズレていくこともあろう。
ドキュメンタリー映画など特にそうだと思う。
が、そんなことはモノを作るときには当たり前のことだ。

そのズレを自分の中に再び取り込んで、最初のプランと重ねあわせて修正し、再び別の視点で対象と相対する。
その過程を繰り返して作品は作られるのだ。
ドキュメンタリー映画に限った話ではなく。
何の目的もなくただの練習風景を撮影していても映画にはなるまい。

はてさて。このやり方は、この映画の主人公クレール・マルシャンの指導にも当てはまる。
チーズフォンデュを食べるときのように」とか
「この音を隣の人に渡していきましょう」などなど、
彼女のユニークな指導法が、具体的にどのような効果があるのかはよくわからない。
が、彼女が明確な意志とプランを持って指導しているのがわかるし、
メンバーたちの反応の一つ一つに目を開かされ、「彼女の曲」ではなく「みんなの曲」を作ろうとしているのも見て取れるだろう。

3つのクラス(子供、ティーンエイジャー、シニア)の練習が別々に進行し、
個々の練習は前述のとおりちょっと意味がわからないものなのだが、
細部が煮詰まってくるに従って徐々に曲の全体像が観客の目にも見えてくるようになり、
ラストの全員での合唱によって「音楽」も「映画」も作品として完成する。

「音楽をする喜びを感じるでしょう?」と生徒に問いかけながら、自分が最もそれを感じているであろうマルシャンに、トレユもまた自分を重ね合わせているに違いない。
合唱を作りたいというマルシャンやメンバーたちの意志と、映画を作りたいというスタッフの意志が紆余曲折を経てアンサンブルを生み出していく過程こそがこの映画なのである。


関係ないけど。
前のユーロも音はひどかったが、オープンして1年くらいだというのにもうスピーカーが割れている。
音楽映画だとさすがに気になる。
フィルムが止まったり、音が大きかったりと上映中もちょいちょいミスするし、テクニカルなことに甘いのではあるまいか。
好きな映画館だけになんとかしてほしいと思う。