チャン・リュル『キムチを売る女』

固定ショットで捉えられた主人公スンヒの後ろでバサバサと木の葉がはためく(ただしステレオ)のを見て
「ああ、ストローブ=ユイレだな」と思ったのだが、
事前情報↓では監督のチャン・リュルは映画なんてほとんど観たことがない人のはずではなので少し戸惑う。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/topics/20070119et07.htm
手持ちカメラでスンヒの背中を延々と追うラストショットはどう見ても『勝手にしやがれ』だし。
何も参照せずにそんなことをやっていたらすごいことだと思うけど、
偶然だろうとそうでなかろうと同じことで、とにかく世界にはまだまだとんでもない奴がいる。

ほとんど全ての登場人物の職業がはっきりしていること
(ただし不倫相手のヤクザな奥さんだけは正体不明だ)
そして彼らや、名もなきエキストラたちの働く姿を教育テレビの社会科見学番組並みにしっかりと映し出していることから考えて、
この映画が「労働」をテーマにしていることは明らかだろう。
(この辺もストローブ=ユイレだ。本当に観てないのか?)

自由化が進んだとは言え、まぎれもなく共産主義国家である中国で
これほど「現代的な」労働者映画が作られているというのは驚きだ。

さて、彼らは基本的に何時いかなるときにも基本的に労働者なのだが、
わずかな例外が友情と恋愛、そして子供である。
スンヒの息子チョンホの描写にかなりの時間が割かれるのは、
子供を通して労働の外を描こうとしたからだろう。
少数民族(朝鮮系中国人のことを朝鮮族と言うらしい)で、貧しい露天商の父無し子であっても、チョンホは近所のガキ大将である。
そこには階級がなく、希望だけがある。

しかし、子供とて「労働力の再生産」という側面は逃れられず
チョンホ本人は意識するはずもないが、彼の生にも労働者としての母親の影がべったりとはりついている。
凧で遊ぶだけでなく、それを買うシーンをわざわざ入れたのは、
それが賃労働と商品売買の上で手に入れられる物だということをまざまざと意識させる。

それは性に関しても同じことで、
隣人の娼婦たちにとっては、言うまでもなくセックスは労働だし、
スンヒの不倫に付きまとう「家族」という観念にも「労働力の再生産」という側面がまとわりつく。

しかし、彼女たちとて逃れられぬ呪縛に汲々としているばかりではない。
普段と変わらない無表情な顔で、冴えない中年男の唇を貪るスンヒの醒めた情熱は
わずかに残された自分の自由な領域である性に必死に身をゆだねようとする彼女なりの抵抗なのだろう。
彼女が、職を斡旋した見返りに体を要求した男を撥ね付けたのは
もちろんそんな男がイヤだったというのもあろうが、
自由=性を、労働の側に売り渡したくなかったからではないのか。

仕事にあぶれた隣家の娼婦とスンヒが無言でビールを酌み交わすシーンのえもいわれぬ美しさ。
そこには末端労働者の悲哀がまとわり付いているが、
その悲しみの底には、そんな呪縛には縛られない自由な二人の魂の間で交わされるささやかな友情が息づいているだろう。