ダニエル・シュミット『トスカの接吻』

ヴェルディが「自分より幸福でなかった音楽家たち」のために作った養老院のドキュメンタリー。
ヴェルディ著作権が切れてからは苦しい経営だと言ってたけど、今でも残ってるみたいですね。
カンツォーネもオペラも普段は聴かないけれど
老人たちの歌う歌には何度も泣かされてしまい、ハンカチーフが手放せない映画なのだが、
家に帰ってから『椿姫』(僕が唯一持ってるヴェルディ)を聴いてみたけれど、あまり感動しない。
やはり映画は映像と音と物語が揃って初めて成立するものであって、
映像や物語なしで曲だけ聴いても、映画と同じ感動は味わえないのだ。
生で観たりするとまた違うわけだが。

はてさて、介護士のおねーちゃんも言っていたけれど
あの老人たちが生きているのは「今ここ」ではなく、50年前の舞台の上である。
年寄りの思い出話というのは時に鬱陶しく、時には醜いものですらある。
時代を考えれば、彼らの中にはファシズムのために歌った者もいるはずなのだ。
しかしシュミットの彼らに対する視線は限りなく優しく、尊敬に満ちている。
黄昏の中で生きること、今ここの現実ではない幻想が人間にとって必要なものであることを知っているからだ。

そうは言っても、彼らとて思い出の中で楽しく穏やかに生きているのみの存在ではない。
彼らが背負ってきた、楽しいことばかりではない人生の重みというものがあり、
それがあるからこそ彼らの黄昏の舞台は美しく輝く。
シュミットはそこからは目を逸らさない。
彼らが否応無く持つ哀れさをも肯定することが、彼らに対する尊敬であり愛であると知っているからだ。

しかしこの映画を観たあとで、彼らのことを哀れな老人だと思う者などいないだろう。
この映画のヒロインと言うべきサラ・スクデーリ(チャーミングで知的でセクシーなババアだ)がレコードに合わせて歌うシーン。
まさに彼女が立っていた黄昏の舞台が彼女の上に降りてきて、彼女がそこに立って歌っているところを見るだろう。
全盛期の声などもう見る影もないが、彼女の中では、そして僕たちにも往年のプリマだった頃の歌声が聞こえるのだ。
その崇高な美しさに触れた者は、彼らのように生きられたらと思わずにはいられないだろう。

何度も繰り返すがそれは幻想である。
が、その幻想を信じることなしに映画など撮れないし歌など歌えないだろう。
幻かもしれないと知りつつそこに身を投げ入れ続けること。
たとえその幻がいつか壊れてしまうものだとしても喜んでその崩壊に付き合おう。
それこそがシュミットの愛であり倫理であり、彼の作り出す美の源泉なのだ。