キム・ギドク『弓』

サマリア』が割と普通の映画だったので
ギドクも「変態」を使わずに純愛を描こうと試みているのだろうか、
新たな表現の模索してゆくのかしらん?などと思ったのも束の間、
最新作は今まで通りの変態映画でした。なんやっちゅうねん。

しかし、今までの映画、例えば『悪い男』では
「徐々に非日常的な愛を受け入れていく過程」が描かれていたのに対し、
この映画ではそこが逆転していて
6歳の時から船の上で老人と暮らす少女という非日常から始まり、
彼女が同世代の男の子との「普通の」愛を知り、そして非日常を再び選択する。
という構成になっています。

結論としてあったはずの非日常の純愛が、ここでは前提として存在し、
『悪い男』では出発点として描かれていた変態男への侮蔑的な視線が
ここでは「獲得されるもの」として描写されています。
この時の変態老人のみじめったらしさほどマゾッ気をくすぐるものはありませんし
時に他の男と当てこすりにいちゃつき、時に鋭く睨みつける少女の美しさも格別で
それがまた時折見せる彼女の無防備さをより引き立て、
観ている僕は身悶えしっぱなしです(笑)

エロ話はそれくらいにするとして、
この逆転した構造によって、少女が「普通の愛」を獲得していく過程が鮮明に描写され、
それによって最後に再選択される純愛のイメージもより強烈になっています。


はてさて。ギドクの映画では、テーマとイメージが、
どちらが優先されるのでも先行するのでもなく等価で
なおかつその二つが分かちがたく結びついているように思います。

クライマックスと言うべき、ラストの小船でのすけべなシーンの強烈なイメージは
作品のテーマから必然的に要請されたものではないと思うのですが、
そのイメージが先行してあって、あの画を撮るためにストーリーがあるというようなものでもない。
おそらくあのシーンは、展開の必然性から構想され
イメージを膨らませていくうちに、テーマから逸脱した過剰さをまとった映像として撮られるに至ったと思うのです。
そしてその逆(イメージから要請され、過剰に膨らまされた展開)もありうる。
イメージがテーマを、テーマがイメージを侵食していくさまこそがギドクの映画なのだと言うことができましょうか。