テオ・アンゲロプロス『蜂の旅人』

コミュニケーションは失敗することもあるし、
たとえ気持ちが通じ合ったかに見えても
それは人の持つ巨大な精神の中のかすかな部分であって
結局人は永久に一つにはなれない。
この映画はどちらかと言えば、
そういったコミュニケーションの残酷な側面に焦点を当てています。

スピロは、ガラスの破片を拾いながら妻と、
唐辛子の歌を歌いながら結婚して家を出る娘と、
あの非言語的なコミュニケーションをします。
しかしここでは、『こうのとり』や『霧の中』のように
それは幸福なものではないようです。
もちろん彼は妻や娘を愛しているし彼女たちから愛されてもいる。
しかし彼はそこに埋めようのない空虚を同時に感じてしまう。
この矛盾は最後まで付きまといます。

言葉に拠らないコミュニケーションを考えた時に
まず思い浮かぶのはセクシャルなコミュニケーションですが、
なぜかアンゲロプロスはセックスの描写を好みません。
性行為どころかキスもあまりしません。
ちょっと不思議なんですが、それは置いといて。
この映画では珍しくキスもセックスもしますが、
そのどのシーンもが上に書いたような矛盾に満ちた場面です。

少女が幼馴染を部屋に連れ込んだ時には
彼女は上に乗っている若者ではなく
隣で寝ているスピロをじっと見つめている。
少女とスピロのシーンでは、
二人はおそらく強烈に求め合っているにも関わらず
彼女はずっと「私を出発させて」とつぶやいている。

アンゲロプロスは人と人の奇跡的な邂逅を信じている。
けれどもそれは奇跡的にしか起こりえないから邂逅なのであって
世界は常に残酷なディスコミュニケーションに満ちているわけです。
彼はその両面を描くことによって、
奇跡の煌きをよりいっそう輝かせようとしているのでしょう。


話は変わって。
スピロが旅の途中で奥さんのところに寄るシーン。
最初、家に入ってきた時点では「一緒に行こう」と言うのだけど
帰るときには、引き止めるのを振り切って
「元気で」と言って出て行ってしまう。

そしてその次の場面では、少女の居る喫茶店に車で突っ込み、
その次は彼女を乗せて娘に昔のことを詫びに行き、
次は廃屋となった昔の生家を訪ねる。
茶店のある町には毎年立ち寄っているはずで
来年も来るつもりであればそこで暴れるはずもない。
つまり彼はこの旅の終わりで死ぬことを知っていわけです。

もう一度奥さんとのシーンを考えてみると、
一緒に行こうと言った時点では自分が死ぬとは考えてなくて
部屋を出る時にはもう死を覚悟していることになる。
あの短いやり取りで何があったのか正確には描かれないけれど
ここにも戦慄するような残酷さが表れています。