アレクサンドル・ソクーロフ『精神(こころ)の声』

タジク/アフガンの国境紛争のドキュメンタリー、
ウェブには5時間半を「一挙上映」と書いてあるので
びびって劇場に電話したところ「1話ごとに休憩いれます」とのこと。
しかし休憩入りでもかなりハードでした。
いつもは満席に近くなる新文芸坐オールナイトも席はまばら…

戦争映画ドキュメンタリーですが悲惨な場面は全く無く、
深刻な話をする場面も一度だけです。
かと言って戦争を美学的に撮るわけでもない。
(本人がナレーションで語っています)

ソクーロフは「戦争」などというものが
実体としてあるということを信じていないのではないか。
などという疑問まで出てきてしまいます。
彼が信じているのは戦争もその一部であるような
歴史とか自然とかいうもっと大きなものではないかと。

とは言え、歴史だの自然だのというものにしても
映像として物理的にカメラに捉えられるような種類のものではない。
ソクーロフはただたんに主観的に撮る。
多用されるオーバーラップ、映像と音響の恣意的な関係
(3分の1近くは映像と関係のない音が流れているのではないか)
戦場を客観的に記録するなどという欺瞞を徹底的に放棄して
自分の感じてきた印象を操作的に作り出しています。

そんなものがどうして歴史や自然と関係を持つのか。
ソクーロフが神を信じているのかどうかは知りませんが、
彼は自分が主観的に撮った映像の細部に歴史が宿ると思っているのです!

それが端的に表れているのはやはり第一話でしょう。
2カットだけ兵士の寝顔の映像が挿入されますが、
三十数分間、固定カメラで延々と雪原の映像、
モーツァルトメシアン、ベートーベンの音楽の断片とナレーション。

いったいこれのどこが戦争のドキュメンタリーなのか(笑)
「今流れているのがメシアンの曲です」
と言うナレーションの後ろで流れているのはモーツァルト
え?と思っているとモーツァルトフェイドアウトして
メシアンがフェイドインしてくる。超適当です。
ふざけて作りましたと言われても信じるでしょう。

しかしソクーロフは、これがアフガン紛争のドキュメンタリーとして
正しい映画だと明らかに確信しています。
頭がおかしいのではないかと思うけど
観ていると何かが魂に降りてくるのを確かに感じるのです。
やっぱりここには歴史が宿っている、と。

それを支えているのはソクーロフの確信の強さ、
荒唐無稽だが確固として揺るがない自らの映像に対する信の力なのです。