ジャン=マリー・ストローブ&ダニエル・ユイレ『雲から抵抗へ』

この映画が2部作で撮られた意義をちゃんと理解してはいないのですが、
前半がギリシャ神話で後半が戦後のイタリアが舞台になっているのは
前半で荒ぶる暴力を、後半でそれへの抵抗の筋道を描きたかったのではないかと。

この映画で語られている神とは自然のことだと理解していいでしょう。
人間の意思や意識の外部にあってどうすることもできない存在。
彼らは人間の生などとは無関係だしそれに興味もなく
理不尽で時に邪悪でさえあるような存在です。

ギリシャ神話の神は姿や人格もある神ですが、
この映画では人間たちの話の中にしか出てきません。
と言っても彼らは不在によって作品を支えるような
否定神学的な存在だと言うわけではありません。
彼らは自然や暴力そのものとしてフィルムに刻み付けられる。

別にこの作品に限ったことではないですが、
ストローブ=ユイレの撮る草木や鳥の音響=映像はものすごい。
浅田彰が彼らの映画を「正しい映像」なんて言ってましたが
正しいでも美しいでも神々しいでもなんでもいいんだけど
説明はできないけどとにかくものすごいんだ、
としか言いようのない音響と映像がそこにあります。

そこには確かに人間の営みに無関心な圧倒的な自然が映っているし、
そっけない口調で淡々と語られる暴力も
それを享受する人間の意識などと無関係です。
当然と言えば当然な話だと思われるでしょうが
それを悲劇として感情的に解決してしまうような物語のなんと多いことか
という話は『オトン』の時にも書いた通りです。
それに比べてストローブ=ユイレがいかに厳しく自然と暴力を描いているかがわかります。

さて、後半です。
舞台が近過去に移っても、ギリシャの昔と事情はそうかわるところがない。
暴力は音も無く忍び寄り、気づいたときには全てが奪われている。
そこには明確な悪意というより意志すらもないものです。
そんな言葉は使われていないけれど、
ここで神=資本主義=暴力であるのはあきらかだと思います。

それに対してどのような抵抗があるのか。
すべての怒りをそこにぶつけるというような
感情的な解決が何ももたらさないのは前に述べた通り。
暴力の記憶を保持し、それを記録し
いつまでもそれをナマの出来事として留め
自らがその暴力に飲まれないようにし続けること。
なんかヨーダみたいだなぁ(笑)