ダニエル・シュミット『ベレジーナ』『ヘカテ』

詳しく読めなかったので詳細は知らないけれど
『ベレジーナ』のパンフレットの宣伝文句には
「シュミットの最もブニュエル的な映画」と書いてあり
青山真治は「ルビッチ的」な真のコメディと書いていました。
その意味するところは、程よく説話的に調和したコメディではなく
一つ一つの出来事の連鎖になんの脈絡もなく
その連鎖一つ一つが跳躍であるようなコメディ、
という意味ではないでしょうか。

程よく調和したコメディとは
Aという出来事が原因となってBという出来事が引き起こされる
という因果によってつらなる物語であると言えましょう。
それに対し『ベレジーナ』では、もちろん出来事の連鎖はあるのですが
AはBのきっかけにはなるとしても原因ではない。
Aに対するBがまるで出鱈目に生起するのがこの映画です。

将軍の部屋でイレーナは薬による自殺を試みるのだけれど
彼女が飲んだのは毒でも睡眠薬でもなく朝鮮人参の錠剤である。
そのことになんらの必然性もないし、
彼女がなぜか将軍の帽子を手に取ることも
なぜかそこに書かれた番号に電話をすることも同様であり、
そのあとのコブラ0からコブラ1へ、コブラ1からコブラ2へ…
という指令の連鎖には誰の意志も介在していなければ
どんな理由があるわけでもなく、
なしくずしに革命は成就されてイレーナは国王になってしまう。

そこにはいかなる理由も因果もないのだけれど
あたかもそれが当たり前であるかのように事態が進行し、
観客も「これでいいのだ」とバカボンのパパのように納得してしまうような
まか不思議なシステムこそが「真のコメディ」と言われるものなのでしょう。

「なぜか知らんが世界はそのようにしてある」というシュミットの主題
(要約すれば「これでいいのだ」という主題)は
画面にも現れています。

ひどく乱暴に要約すれば「愛のすれ違いの物語」と
ひとくくりにできなくもない『ヘカテ』とアルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』の決定的な違いは
ノイズの多さにあると思います。

『ヘカテ』では「愛の物語」とは関係なく
強い陽光とそれと対照を成すように濃い影が画面に溢れ、
パーティでも雑踏でも人々はやかましくざわめき、
場違いで人を食ったような音楽が流れ続けます。
この映画は世界がそのようにしてあることの驚きに溢れています。

トーク・トゥ・ハー』にはそのような驚きは一切ありません。
アルモドバルの映画の人物達は数奇な運命を辿るとしても
そこでは原因と結果の連鎖する程よく調和した出来事しか起こりません。
まるで『踊る大走査線シリーズ』のような(僕は今月2本も観てしまったのです)
事件もアクションもサスペンスもない退屈な物語です。

アルモドバルよりもシュミットのほうが絶対に偉い
と青山はおそらく考えているのでしょうし
それに納得できないでもないのですが、
僕はアルモドバル的な退屈さのほうも偏愛しているのでした。