ペドロ・アルモドバル『トーク・トゥ・ハー』

舞台を観たり歌を聴いて涙を流すという行為は
かなり一方通行な感情の動きです。
アーティストがオーディエンスの感情を感じる
という側面はゼロではないけれど
おそらくピナ・バウシュはマルコの涙を知らないでしょう。

舞台で演じるバウシュにはバウシュの、それを観たマルコにはマルコの、
それぞれ違った感情があるのでしょうが、
それはお互いの方を向いているようで向いていない
ほとんど一方通行で交わり難いものです。

余りにもグロテスクなベニグノのアリシアへの愛は
一方通行でコミュニケーションが部分的にしか成立していない
という意味で芸術作品に似ています。
ベニグノの悲痛な想いは作品を理解してもらいたい
という芸術家のそれと重なるでしょう。

「お前にどんな女性経験があるんだ」という問いに
「いろいろだ。母との20数年間とアリシアとすごした4年間がある」
と平然と答えるベニグノの愚鈍さは
偉大な芸術家の愚鈍さを思わせます。

ベニグノの悲劇は、愛や芸術といったものが持つ
届かないかもしれない(むしろ届かないことのほうが多いくらいですが)
という残酷な側面をえぐります。

リディアが事故の直前に元鞘に納まっていた、という事実は
彼女がマルコと愛し合いながらも
心のどこかで前の恋人(名前忘れた)のことを想っていたことを意味します。
だからと言って彼女のマルコに対する気持ちが嘘だったと言えるでしょうか。
マルコの気持ちはリディアに届いていなかったのか
と言えばそれは違うと思います。

同様に、ベニグノの歪んだ愛情がただの妄想的なモノローグだと言い切れるのか。
一面ではそうでしょう。
しかし、愛も芸術も常に妄想的なモノローグである可能性を含んでいる
という意味で彼の愛情もまた真実だったと言えると思います。