カリン・クサマ『イーオン・フラックス』

この映画は「リアル」を求める物語なので
やはり『マトリックス』を思い出さずにはいられないけれど
マトリックス』では1999年の世界が日常(ヴァーチャル=想像界≠リアル)
だったのに対し、この映画の日常は徹底的に虚構としてあります。

その虚構の作りこみの徹底ぶりがすごくて
こういうお金のかけ方ならOKだよなと思わせられます。
400年後の未来の隔離された都市という設定なのだけど
服も武器も建築物も、完璧に未来志向的なデザインではなくて
現在の感覚の延長上でちょっと未来的な感じで(でもかっこいい)
それが逆に日常の虚構性を際立たせています。

で、主人公イーオンが求めるリアリティは
薬物による幻覚や夢、ピンボケした写真などといった
意識とは異なる位相にある痕跡としてしか表れず
常に霞がかった捉えがたいものとしてあり
それは意識に問いたずねることによって認識されるのではなく
例えばトレヴァーとのキスのときのように
身体的記憶がフラッシュバックするような形で表れる。
まぁ後半謎解きが始まっちゃうと
この辺の設定の面白さが消えてしまうのだけども。

結末には「お前の求めたリアルは妊娠かよ!」
と思わないでもないけれど、よく考えればそれほど単純でもない。
トレヴァーが受けた銃弾を摘出するシーンは
どこか薄暗い壁の裏みたいな場所で二人きりで寝そべって
イーオンがトレヴァーの服を脱がせる。
あからさまにセクシャルなニュアンスがあるのだけど
もちろんこれは摘出であって挿入の逆であり、
自然妊娠に対するクローン生殖のメタファーだと言えます。

DNA情報を搭載した飛行船はもちろん生殖器なのだけど
(これの形状もなかなかよく出来ていると思う)
最後はこれで壁をぶち破ってして閉域の外に出る。
摘出も突破も「自然妊娠=リアル」とは逆なのですね。

銃弾を摘出するのも、
ビラビラをつたって飛行船に穴から侵入するのも
(我ながらお下品な表現ですこと)女性のイーオン。
一見すると単純な自然回帰のようなテーマを装いながら
ちゃっかりと男根的なセックスを否定しているわけです。
つまりは女性の映画なのですね。


アクションの話。
マトリックス』の有名な静止して回転するアクションシーン、
ウォシャウスキーがなんであんなことをしたのかもわからないし
あれが世間に受けたの理由もさっぱりわからん、
と思っていたのですが。

この映画でもアクションの演出はお粗末で
誰がどの方向に向けて起こしているアクションなのか
画面を的確に整理する手段が(おそらく)わかっていないので
シーンの最後に「結果こうなりました」っていう説明ショットを入れちゃったりする。

で、思ったのはクサマがどうしていいかわからずに
ほとんどなげやりになってしまっているのに対して
ウォシャウスキーは自分がアクションの演出ができないことに対して自覚的で
「静止して一周カメラを回せば状況の説明ができる」
という開き直りのような発想であれをやったのではないか。

僕にはマヌケとしか思えなかったあの映像が受けたのは
その説明的なわかりやすさゆえにだったのかなぁと思ったわけです。
そう考えると自分に足りないものを自覚して
解決策を見出したウォシャウスキーは偉いなぁと思います。
もちろん「ちゃんとしたアクションの演出ができる人」が一番偉いんですが。