ホウ・シャオシェン『風櫃(フンクイ)の少年』

ホウ・シャオシェンはよく「たむろする人々」を撮るのだけど
たむろする人というのはある一定の目的を持って集まってるわけではなくて
ただなんとなくそこにいる人々であり
大概がてんでばらばらなことをしているものです。

また、この映画はカメラがかなり引き気味で
その結果上記のようにてんでバラバラな人々が一緒くたに画面におさまるし、
人だけでなく水、船、建物、光が画面に横溢しているし、
バストショットのシーンでも画面上に映るのは一人でも
必ずだれか別の人の声や街の音がノイズとして入り込んでいます。

これらは主人公たちの「少年時代」が、
学園ドラマにおける学校やホームドラマにおける家のような
閉ざされた箱庭的な空間の中にあるのではなく
開かれた世界の中にあり、
絶えず外部と繋がっていることを強く意識させます。

田舎の漁村の美しい風景も、騒がしい都会の風景も
主人公の少年(名前わすれちった)にとっては
自分をスポイルし苛立たせる憂鬱な風景です。
人間はそうやって自分を包み込む世界無しには存在できないが
人間の認識無しには世界もまた存在しない
という観念論的な認識の上にこの映画は成り立っていて、
そのことが世界に溢れる光の美しさと、
憂鬱な少年の生の美しさを共に輝かせているわけです。

ホウ・シャオシェンは世界と、その中に住まう人間を描く作家であり
彼がこのあと時代物を撮るのは必然だったと言えましょう。