『高橋悠治による北園克衛と足立智美による新國誠一』

とりあえず説明すると、高橋と足立が音楽家で北園と新國が詩人。
詩に造詣の深い音楽家による詩の解釈ってことらしいんですが
僕は詩のことはまーったくわからないのでとりあえず音楽のことだけ、
というか悠治のことだけ書きます。

最近、モンクとライヒの曲を(それも声を使った曲を)
たくさん聞いていたので否応無く比べてしまうのですが、
昨日やった悠治の曲はどちらかというとライヒに近く
テクストの意味を保持しながら、
音響的に声にわずかな変調をかけたりかけなかったりしながら
その響きが、意味を持った言葉と意味のない音響の間を行き来するのを聴く
という体験であると言えます。
(元のテクストが詩なのだから当然なのだけど)

あくまでもそこにある具体的な音(朗読された詩、サティのピアノ)
に基づいて、そこにほんの少しだけ手を加える。
ここまでなら誰でもできることなのだけど、悠治が真に恐ろしいのは
それをコンピュータのランダムプロセスでやってしまうこと。

もちろん音楽に偶然性を持ち込むということは60年前からやられてるけど、
例えば足立の曲の場合、微細なコントロールを加えている部位と
それを解き放ってランダムに任せる部分とが分かれてしまい、
ランダムな部分ではほぼコントロールを失ってしまう。
(それが悪いってわけじゃないんだけど)
それに対し悠治はコンピュータにお任せ、でありながら
同時に元の音が持つ文脈を外れるか外れないかという微妙な線を常に保持している。

そしてもっと恐ろしいのは、
それらの音響がふと音楽であることも詩であることもやめ、
音楽や詩に似た何物か、になる瞬間が訪れるのですね。
本人が「今みたいに失敗することもあります(笑)」と言うように
これはごくたまに、偶発的にしか生起しないのだけど。

例えば足立さんが作る音も非常に面白いのだけど
やはりどこかで大文字の音楽との折り合いをつけてしまうのに対し
悠治の音は決してノイズではないが、音楽でもない何か別種の音響、
ノイズのように聞き流すこともできないが
聞き取ろうという意志を切断してしまうような
なんとも不気味な音なのですね。