冨永昌敬『パビリオン山椒魚』

一応これはサンショウウオを巡る物語であり、
国宝になっているサンショウウオが本物か偽物か
という謎が最初に提起されるのだけど、
この謎はまだ画面に登場すらしていないあづき(香椎由宇)の
「本物とか偽物とかどっちでもいいの」
というセリフ(正確にはセリフですらない)によって
いきなり無効であることが宣言されてしまい
物語は冒頭のナレーションからしてすでに方向を失ってしまう。

麻生祐未香椎由宇が登場するシーン、
あづきの母親は誰かという謎が提起されるのだけど、
どう見ても姉妹には見えない二人と、麻生祐未の曖昧な態度によって
提起された瞬間にこの謎の答えは誰の目にも明らかになってしまう。
そしてチープなサスペンスドラマのようなこの二人の姉妹=親子関係が
サスペンスを引き起こすのかと思えば、まったくそうではない。

主人公二人が出会った時、芳一(オダギリジョー)は
香椎由宇の父親を麻生祐未の夫である光石研だと思っていて、
その誤解は解けないまま二人はその父親について話をするのだが、
ここからコントのような展開に膨らめられそうなこの状況も
ほどなく本物の父親(高田純二)の登場で立ち消えとなる。
芳一は父親が自分が思っていたのと別の人物だったことに驚きもしない。
と言ってもこれはギャグとして作られたものではなく
サスペンスもコントもパロディではなく本気で作られています。

「子どものころ、ホイ兄弟やジャッキーやサモハンの
愉快な映画のなかに忍びこみたいと思いました。
大人になって、ベルトルッチやアントニオーニの
暗い世界にあこがれました。
そこで両方を同時にかなえようとしたら、こんなふうになったのです。」

という冨永の言葉がチラシに書いてあったが
ふざけてるわけではなく本気で二つを同時にやろうして
その結果がこのような映画になった、ということが重要なわけです。

ドラマチックな展開が起こりそうな萌芽はあちこちで起こるのに
それらがちっともドラマを構成しようとはせず、
芳一はもう誰だかわかっている上に死んでいるあづきの母親を探そうとし、
どう見ても偽物のサンショウウオを掲げて財団は存続しようとする。
なしくずしに展開する物語がドラマティックな展開は全く起こさないまま
異常なテンションのドラマを形作っている。
正統に物語を語ることが不可能になってしまった今、
パロディにならずに面白い物語を語れるというのはすごいですね。