人間/動物/恋愛

「女だからお茶くみをするとか、外国人だから自給が安いとか、
巻誠一郎は184cmだから代表に呼ばれた、などと言うとき
女とか外国人とか184cmとかいうことは本人の選択の余地はなく、
彼らは主体とは無関係なところで選別されている。
このとき彼らは、いわば人間としてカウントされておらず
アガンベンの言う回教徒と同じような存在である」
と、だいたいこんなような話を岡崎乾二郎がしていました。

↓古谷利裕の"偽日記"06/06/08(木)に
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html
「恋愛(柴崎氏の登場人物にとってそれは動物的な次元での「好み」によって決定される)」
と書かれているんですが、
この「動物的」は「回教徒」と同じ意味でしょう。

恋愛というヤツは動物的な部分と人間的な部分の複合でできていて、
その人の傾向とか、個々のケースによって
そのどちらかに大幅に傾くことがあるにしても
基本的にその二つのせめぎ合いで成り立っているように思います。

美人、たくましい、セクシーなどといった
ほぼ第一印象で決定される部分が動物的側面で、
性格などのいわゆる人間性の部分が人間的側面でしょうか。
しかし性欲=動物というような単純な話ではなくて
自分の好みの相手を性格もいいと思い込もうとする傾向はありますし、
逆に性格がたくましさやセクシーさを強調することもあります。

問題になるのは、人間は誰しも人間として扱われることを望むということ。
恋愛においてももちろん同様なのですが、
恋愛においてはほぼ必然的に動物的側面が浮上してくることになり、それによって
「自分は人間として扱われたいが、相手を人間として(のみ)扱うことはできず
その結果、相手にも人間として(のみ)は扱ってもらえない」
という矛盾を常に抱えることになります。
まことに厄介ですね。