黒沢清『CURE』

『地獄の警備員』は社会に回収されない化け物
宮台真司が言う「脱社会的」な)の話ですが、
この映画ではそれが次々に感染していき、
しかもそこに合理的な説明が与えられません。
が、考えてみればそんなことは当たり前で、
合理的な説明ってのは社会の側の理屈ですから
社会を脱したモノにそれが適応できないのは当然です。

フーバーの『悪魔のいけにえ』では
蛇の抜け殻だの、牛の頭蓋骨だのの映像が
物語とはまったく関係なく挿入され、
それらがこれからはじまる恐怖の「兆候」
として不気味さを放っています。

黒沢も点滅する踏み切り、廃屋、こぼれる水、檻の中のサル
などといったアイテムを用いますが、
これらはすでに恐怖の予兆ですらない。
間宮(萩原聖人)の存在がそうであるように
社会とは関係なくただそこにあるモノとして写っています。

高部(役所広司)が見る彼の妻の死体は
映画の中盤では幻覚ですが、
後半では、妄想なんだか現実なんだかわかりません。
もはやそれを峻別する物語の理屈が壊れているからです。

フーバーの「物語的に無意味なモノ」ですら
恐怖の兆候として映画に奉仕しますが、
間宮やサルや死体は、そういった制約すらも振り切り、
映画は段々と、ただのモノの映像、音響の集積が
かろうじて物語らしきものを構成している、という
ゴダール的な領域に解体され始めるのですが、
黒沢のすごいところは、それを劇映画(しかもジャンル映画)
の枠内でやってしまうところです。