失敗の美学

昨日は巻上公一さんの講義でした。
カール・ストーンと言い、連日の大物続きです。

いろいろ面白い話をしてましたが、
ヒカシューのキーボードの井上さんは、
コードを押さえないで1音か2音で弾く。
ちゃんとコード押さえちゃうと上で歌える音が限定されちゃうけど
少ない音だと何を乗せてもOKだ」
なんて、いかにもな感じがして面白いですね。
弾かない(弾けない)のをクレバーだ、と
積極的に捉えてしまうんですからさすがです。

あとは「失敗してこんななっちゃった」というコンセプト。
ニューヨークで即興ライブやったときのビデオを見たんですが、
灰野敬二が、明らかに間違って
シーケンサーのプリセットの超まぬけなベースラインを流しちゃってて
灰野さんがそれを必死にごまかそうとしてるのを
大笑いしながらみんなで見てたんですけど、
これ、音響的にはどう聴いたって大まぬけなんですが
パフォーマンスとしてはべらぼうに面白い(笑)

で、「失敗してこんななっちゃった」というコンセプトと
上の灰野さんみたいな「本物の失敗(笑)」の間に違いはあるのか
という質問を僕したんですけども「ないです」とのこと。
失敗したときどう対処するかが即興の面白さなのですね。
おそらくは「失敗してこんななっちゃった」というコンセプトとは
いかにして失敗を招き入れるかということなのでしょう。

そして最近僕がお題目のように繰り返してますが、
その時「音波としての音楽」は本質的ではない。
音楽が生成する過程をパフォーマンスとして楽しむこと
が充分に音楽として成立するという話で
(もちろん「音波・音響」的側面を否定するものではないけど)
「失敗」というのはその過程を見せる手段である、
と言えるのではないでしょうか。