アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』

冒頭近く、父親の友人(名前わすれた)が、
高速道路を走るシーンを延々とやるんですが、
これ、物語的に言えば何の意味もありませし、
彼の心象を投影した何か象徴的な映像というわけでもない。
かといって、ただ高速道路を高速道路として写した
というような映像でもありません。

何かを意味するわけでもないけれど、
なんの意味もないただの映像でもない。
ある意味ではセドリック・カーンの映画における
スッコやセシリアのような
解釈を許さない怪物に近いものかもしれません。

クリス(ドナタス・バニオニス)の家の庭も馬も、
ソラリスの海や、ステーション窓から見える宇宙も
同じように、意味もなければただの映像でもない映像、
なわけですが、その最たるものが
クリスの妻ハリー(ナターリヤ・ボンダルチュク)でしょう。

彼女はハリーでありながらハリーではなく、
幻影でもなく、何かの象徴でもない。
ハリーとクリスの関係は映画と観客に似ています。
意味のない映像でありながら、ただの幻影ではない女。
そして、それを現実ではないと知りながら
複雑な思いで愛さずにはいられない男。

その意味でいうと、ハリーが自らの存在について
自問自答をはじめてしまうのが恐ろしいです。
映画が映画自身の根拠を映画の中で問うている、という意味で
これも70年代的な映画だといえるでしょう。
ヴェンダースが『ベルリン・天使の詩』を
小津とトリュフォータルコフスキーに捧げているを思い出します。