セドリック・カーン『倦怠』

カーンは演出も画面設計もとってもお上手なので
おそらく美麗でおフランスな映画(←バカにしてんのか?)
だって撮ろうと思えば撮れるのでしょう。

最初のパーティシーンでは、マルタン(シャルル・ベルリング)が
苛立たしげにウロウロする姿を捉えるんですが、
せわしなく動き回るカメラは、
観客には、彼が邪険に扱った女学生を画面の外に意識させつつ
彼の苛立ち(倦怠感?)を的確に演出します。

しかし、カメラ、演出、音響などを駆使して示される
マルタンの孤独はこの映画の全てなどではありません。
これを第1のレヴェルとすると、
第2のレヴェルはあらゆるところに現れるサインです。
シャマランの『サイン』と同じ意味での
いか様にも読み取れるサイン。

家族以外には聞き取ることが出来ず、
時に恣意的に改変されて解釈される
セシリア(ソフィー・ギルマン)の父親の声。
カフェで待ち伏せをするシーンではギャルソンの謎めいた行動が、
マルタンにとってはセシリアの浮気の証拠として解釈され、
彼は発狂寸前になります。

そして第3のレヴェルは言うまでもなく、
ブラックホールのように全てを飲み込んでしまう
巨大な穴、セシリアです(ちと否定神学的ですが)
彼女はただ髪を束ね、ただ話し、ただ寝る。
一切の解釈を許さない不気味な怪物です。
1、2における美麗な演出があるからこそ
彼女の怪物的な何も無さが、いっそう恐ろしいのです。


ビートたけしが『仁義なき映画論』の中で
マーシャルの『プリティ・ウーマン』について
ジュリア・ロバーツが主人公じゃ全然説得力がない。
美人でむちむちでとても娼婦には見えない。
もっと蓮っ葉なアバズレ女を主役にして撮ってみろってんだ」
(↑うろ覚え)みたいなことを言ってました。

「むちむち」というよりは「ぽちゃぽちゃ」(←失礼!)な
ソフィー・ギルマンを使ってカーンは、
彼女を史上最強の魔性の女として撮ってしまうのだから
すごいとしか言い様がありません!

アルベルト・モラヴィアの原作は読んでないんで知らないんですが、
『ロリータ』みたいな美少女なんじゃないでしょうか(情報求む)
ギルマンには本気で失礼だけど…すごいキャスティングのセンスです。