フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』

オゾンは一貫して主観描写の人でして、
例えば最初にロマン(メルヴィル・プポー)が倒れるとき
意識を失う瞬間に画面が白くなるところとか、
自分が余命いくばくもないと聞かされたあと、
公園で戯れる人たちを見つめるときの視線などが
典型的にオゾン的な描写なわけです。

これまでのオゾンの映画では、
主人公は何の自覚もないままで
いつのまにか観念的世界に足を踏み入れていたんですが、
この映画では、主人公の主観の変化による視線の変容が
(映画においてはカメラアイの変化とは
ほとんど世界の変化を意味するわけですが)
彼自身によって明確に自覚されている点でしょうか。

また、オゾンの映画には
主人公の願望の化身みたいな人が出てくるんですが、
この映画では世界に侵入してくる者というよりも
ロマン自身が積極的に呼び出す者として現れます。

また、そのような存在とはこの映画においては
まず子供時代のロマンなのですが、
祖母(ジャンヌ・モロー)や、
ジャニィ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)との子供、
といった複数の存在に分散されているんですね。
このことによって、いままでのオゾンの映画のような
謎めいた幻想感は薄れているんですが、
主人公の主観の変容がより明確に現れています。

曖昧さをはらんだ幻想感は後退したんですが、
主人公の主観の変化がダイレクトに出たことで、
恋人サシャを突き放すシーンでの、
愛していないといいながら方に頬を寄せてしまう
ロマンの感情の繊細な感じとか、
ジャニィたちとの3Pでの二人との距離のとり方とか
こまかい感情の描写の美しさが際立っておりまして
隣の席の方などはずいぶんと泣いておられました。