ジャン=リュック・ゴダール『ゴダールの探偵』

一昨日、『モロッコ』での
ディートリッヒやクーパーの立ち振る舞いについて、
人間の動きとしてはあまりにも不自然で、
現代の映画では不可能なのではないかと書いたけど、
ゴダールの映画の人物達も、
「自然さ」からはかけ離れた振る舞いを常にしているのだった。

カフェやバーでのナタリー・バイの振る舞いは
夫や愛人の話を聞く女の表情ではないし、
カメラと女の脚とはためくスカートの端を捉えたショットも
マフィアのボスと幼女が階段を上るショットも
これらのものが同時に画面に収まっている必然性は
なにもないように思えます。

フィクションの世界の産物でありながら、
物語内的な必然性に全く従わず、
余剰としてはみ出してしまうような細部。
それがハリウッドの古典作品から
ゴダールが引き継ごうとしたものなのでしょう。

自然な人間の動きではない、と言いましたが、
それはリアリティがないという意味ではなく、
過剰な細部として写されてしまうことによって
はためくスカートも、そこから伸びる脚も、
スカートでも脚でもない何か別のモノ、
映画的なリアルとして姿を現すわけです。

様々に施された音響エフェクトや寸断された音楽も、
奇をてらった遊びのようなものではなく、
映画内部のシステムに寄り添おうとした結果、
そからこぼれおちるような
過剰な音になってしまった、と言えるわけでして、
ここにもまた映画的なリアルが姿を現しているのです。