でもやっぱり音楽批評は難しいということについて

菊地が油井正一ら先人が書いたジャズの歴史について
(↑って僕はそんなの読んだことないけど)

演奏をしなかったり音楽理論を知らなかったりする人が歴史を編むとしたらこう編むしかないわなーっていうフィギュアもはっきり見えてくるんだよ。

と言ってるんですが、
音楽の読み物は音楽家が書いたものが圧倒的に面白い、
という傾向は確かにあります。
菊地も大谷も演奏家ですしね。
まぁ前にも書きましたけど、
佐々木敦とか伊藤政則みたいな例外はいるんですが。

これもおかしな傾向だと思うんですよね。
小説家が「小説について」書くことはあるけど、
やはり小説を読む人と言うと
小説家よりも文芸批評家、というイメージが強い。

映画監督もいろいろ映画について話す機会は
小説家よりは多いし、認知もされてるけど、
映画を観る目という点に関しては、
淀川長治蓮實重彦には誰も勝てないわけです。
ヌーヴェルヴァーグの人たちは批評家出身ですしね。

小説、映画であれば、
「書く」「撮る」という能動的な行為の前に
「読む」「観る」という受動的な行為があるわけです。
で、文芸批評や映画批評ってのは、
受動的な行為であった「読む」「観る」を
積極的で能動的な行為として確立しようとするものだ、
と言えるわけですね。

その点で言うと『東京大学アルバート・アイラー』も
音楽理論的なことには踏み込まない、としながらも
やはり「聴く」より前に「演奏する」があるように感じます。
二人とも演奏家だし、演奏家として発言するしかないんだから
しょうがないっちゃしょうがないんですけど。
「演奏する」の前段階として「聴く」という行為を
能動的なものとするような批評が必要だよな、と思います。