ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』

序章の地獄編が終わったあと、煉獄編の最初の方では、
ユダヤ人ジャーナリストのおねーちゃん(サラ・アドラーかな?)が
大戦の頃に何かあったらしい大使と、
インタビューの枠を超えた和解の可能性を探ろうとします。

また、インディアンの夫婦が登場し、
パレスチナの詩人、マフムード・ダーウィッシュと、
国を追われたはぐれ者同士で、和解しようと言います。
で、ダーウィッシュたちがいた部屋から誰もいなくなって、
どうやら3人が一緒にどこかに行ったことが示唆されたところで
主人公のオルガ(ナード・デュー)が登場するシーンになるのですね。

つまりオルガは、和解の申し子として登場するわけです。
そう考えるとこの映画でのゴダールは、
和解に対して悲観的だといえます。
何しろオルガは、この世に対して何の希望も持っていないし、
実際にこのあとあっさりと死んでしまうわけですから。

とは言え、絶望しか描かれていないってことではなく、
オルガは穏やかで平和な天国に行くわけですから
ある種の希望が描かれてるとは言えるわけです。
天国で救われるのが希望なのか?
って疑問には「そうだ」と答えるしかありません。

サラ・アドラーもインディアンの夫婦も
国や民族同士の和解などという大それたことは考えてなくて、
あくまで個人レベルで考えています。
これは、映画が和解そのものを描くことができず、
せいぜいその象徴を撮ることができるにすぎない、
ということとも関わっているのではなかろうかと。

前作同様、楽観的ではない皮肉な希望ですけど、
ゴダールはオルガを天国で救うことによって、
和解への希望と、和解の表象不可能性を、
同時にフィルムに刻もうとしんじゃないかと思うわけです。

…この解釈にも全然自信がなくて(笑)
なんでゴダールの映画はこんなにわかりにくいのか、
っていつも思うんですけど、
第一の理由は、わかりやすい話に落とし込んでしまうと
観客の想像力の広がりを限定することになっちゃうからですね。

もう一つ。物語的な拘束からある程度逃れているから、
例えば、サラ・アドラーが首を何度も振って、
その顔にあたる光が変化しつづけるシーンのような
無意味だけど美しいシーンが撮れるのですね。
どちらにも共通して言えるのは、
それが映画の自由に関わることだってことです。