ジャン=リュック・ゴダール『愛の世紀』

『アワーミュージック』のパンフレットで菊地成孔
『愛の世紀』から音響設計がかわってちょっと丸くなった、
というようなことを書いてたんですね。
公開時(2002年)に観たときは、そういう印象はなかったんで、
今回じっくり聴いてみました。

結論から言うと、確かにだいぶ穏やかになってますね。
90年代のゴダール/ミュジーであれば、電話のベルやドアを閉める音は
耳をつんざくような音量にしてたと思うんですけど、
この映画では、会話や音楽と同程度の音量に抑えられています。

しかし、全部ってわけではないんです。
前半部(モノクロパート)の野外撮影部分に関しては、
ラクションなどで、かなりの爆音を使っています。
で、おそらくこれは、テーマとも関係するのです。

『アワーミュージック』において全面的に展開する、
異質な音を異質なまま調和させる音響設計は、
この映画においてはまず、室内撮影部分で試みられています。

昨日観たばかりなのに詳しい状況を忘れたんですが(笑)
エドガーの部屋かなんかで、セリフあわせをしてるシーンとかですね。
英語とフランス語が混じりながら、同時に3人くらいの人が喋っている。
異質な声が、異質なままにお互いを排除しあわずに並置される空間です。

それに対し、外の世界はそうはなっていなくて、
会話の中に、異質な音が暴力的に侵入してくる空間なんですね。
川のそばでのエドガーと女優の会話は
車の音にかき消されて聞くことができません。

で、この対立がなぜか後半(カラーパート)で解消されるのですね。
前半部では爆音で、会話を切断する音だった車や波の音が
後半ではだいぶ抑えられ、会話や音楽の音と調和している。

ちょっと強引な解釈ですけど、前半でのと外の対比は、
共同体の内部と外部の対比を表象してたんじゃないかと。
物語が進むにしたがってこの対立が解消されるわけですけど、
皮肉なのは、後半は前半の2年前という設定なのですね。

声の響きあわない空間から響きあう空間を作り出すのに、
未来ではなく過去に遡らなければならない。
名前(呼び名)を持たない合衆国のエピソードなんかに
この主題が表れているわけですが、
アメリカは映画が誕生した国でもあるわけで、
ゴダールにとっても両義的な国なのかなぁ、
と思ったりもします。

ラスト近くで、孫娘がおばあちゃんに
「音楽をかけてもいい?」と2回聞くんですけど、結局かけないで
おばあちゃんの息の音と窓の外の風の音
二人の会話が響いてるんですね。
この場面では三つの音のハーモニーこそが「私たちの音楽」であり、
次回作への布石はこの時点で打たれていたと言うべきでしょう。