吉田喜重『鏡の女たち』

原爆がテーマの映画なんですが、
原爆についてはストーリーに付随して語られるに過ぎず、
原爆の映画として観れば拍子抜けするかもしれない。
しかし、吉田が戦争について考え抜き、
ギリギリのところで語ることが出来たのがこの映画だ、
ということは、ひしひしと伝わってきて
観ていて身が切れそうになります。

舞台挨拶で吉田は、
私自身は広島を見たわけではないので、
語る資格があるのかずっと考えていた、
というようなことを言っていました。

観客のほとんども直接には原爆のことなど知らないし、
もちろん僕も知りません。
(どうでもいい話だけど、修学旅行で長崎に行ったとき
被爆者の方の講演を聞いたのだが、僕はほとんど寝ていた。
なんて失礼なガキだろう。ひっぱたいてやりたい)

しかし、そもそも映画というものが、
記録された映像と音響にすぎない以上、
ドキュメンタリーであれフィクションであれ、
「真実」などというものを語ることはできません。

広島の真実などというものはもはや語られることはできず、
岡田茉莉子田中好子の親子関係がそうであるように、
おぼろげな記憶としてしか残っていないものだし、
場合によっては偽の記憶かもしれないわけです。

原爆の記録ゆや資料といったようなものを一切撮らず、
ひたすらその表層と、原爆をめぐる物語だけを語ったのも、
岡田が最後までDNA鑑定をしなかったのも、
そういった確定的な真実のようなものは決して真実たりえない、
と、吉田が考えているからではないでしょうか。

記憶は薄れて消えていってしまうかのように思えますが、
田中が岡田の人生を反復し、
それを孫の一色紗英がまた反復するように、
灯篭に照らされた美しい3人の女優の顔と共に、
今日、僕や他の観客たちに刻み込まれた広島の(虚構の)記憶は、
いつの日か我々の誰かの手によって
他の人に受け継がれていくのではないでしょうか。
…などと言ったら感傷的にすぎるかな?