スティーブン・スピルバーグ「マイノリティ・リポート」

いろんなとこで書かれていることだけど、
この映画では序盤から中盤にかけては、
最初の犯人の眼鏡、プリコグたちが見る予知夢、
網膜識別システム、ジョン(トム・クルーズ)の目の手術、等々
『目』と『見ること』が主題となっているのだが、
後半にはなぜか、そんなものなど最初からなかったかのように
その主題はどこかに消えてしまう。

僕も、前に観たときはおかしな映画だと思ったものだが、
今回観直して、もしかしたら?と思ったことがあった。
ララ(キャスリン・モリス)の家で、アガサ(サマンサ・モートン)が
ジョンとララの息子の(起こり得たかもしれない架空の)思い出を語るのだが、
柔らかい光を背にして、優しい表情で語るアガサを写したこのシーンは、
明らかに観客を感動させようとして撮ったシーンだと思われる。

中原昌也阿部和重が「A.I.」のラストについて、
エイリアンとアンドロイドとその記憶、という、
人間のようで人間ではない者のみしか出てこないにも関わらず
観客を泣かせようととしている、と言っていたのだが、
上記のアガサの語りのシーンにおいても、
ただ語られるだけで、実際には起こっていないし
映像もないにもかかわらず、泣かせようとしている。
やっぱりスピルバーグは異常だ(笑)

前半の、息子とララのホログラム映像を見るシーンでは、
横から見たホログラム映像が、立体的な像を結ばず、
リアリティは、あるものを一方的な側面から見たときに生じる、
ということを示していたのだが、
執拗に『目』と『見ること』についての物語を紡いだあとで、
映像なしでのリアリティを提示することによって、
(上記のシーンは、アガサの語りとそれを聞きながら涙ぐむ二人の画で、
肝心の息子の映像などは出てこないという不可思議なシーンなのだ)
スピルバーグは『目』の主題を無かったことにしたのではなく、
見られることはないが空想的に生起するリアリティを
作り出そうとしたのではないだろうか。

そう考えると、物語が破綻しかねないほどにお座なりな
クライマックスの描写の意味が見えてくるのではなかろうか。
ジョンは、ラマー(マックス・フォン・シドー)に、
『俺を殺せば予言は的中し、システムは安泰だ』と言うのだが、
このセリフを言った時点ではジョンは予言の内容を知らないはずで、
ラマーがジョンを殺すという予言は出ていなかったかもしれないのだ。
ラマーがジョンを撃たず、かつシステムも安泰、
というシナリオもあったかもしれないのだが、
映画ではラマーが板ばさみに追い込まれるかのように描かれている。

しかし、スピルバーグのミスで物語が破綻したわけではない。
ジョンは見てもいない空想上のシナリオを
強引に手繰り寄せることによって、
その空想にリアルな内実を与えようとしたのだ。
なぜか。誘拐されたジョンの息子がどうなったのか
最後まで語られなかった点が重要だ。
つまりジョンは、生きているか死んでいるかわからず、
見ることもできない空想上の息子に、リアルな生を与えようとしたのだ。

蛇足だが、フィルムに焼き付けられてはいるが、
実際にはもはやそれが起こったのかどうか
確かめることも出来ない空想上のリアリティとは、
映画の比喩でもある。