フランソワ・オゾン「スイミング・プール」
浅田彰が数年前に、
『21世紀の映画の可能性は、ゴダールとストローブ=ユイレの間に張られている』
(↑うろ覚え)というようなことを言っていたのを
この映画を観て思い出した。
僕はこれを読んで違和感を覚えた記憶がある。
形式上の違いにもかかわらず、
この二組は、両極として設定するには近すぎると感じたのだ。
浅田のことだから、わかって言ってるのかもしれないが。
この違和感をわかりやすく例えると
『哺乳類の可能性はカンガルーとコアラの間にある』
って言われているような感じ。意味がわかりませんが(笑)
おいおい、有袋類以外に未来はねえのかよ!みたいな。
オゾンを観るのは初めてだったのだが、
「スイミング・プール」を観て、観念論的な映画だ、と思った。
そして、浅田の発言に違和感を覚えた理由も少し分かった気がした。
ゴダールもストローブ&ユイレも、徹底的に唯物論的な作家なのだ。
物質としての風景、物質としての人物、物質としての言葉、
そして物質としてのフィルム。
デヴィッド・リンチも観念論的な作家だと思う。
その意味で、ゴダールとリンチを両極とする、
斎藤環の問題設定の方が正しいような気がする。
どうでもいいが、今回改めて思ったのは
浅田彰は徹底してマルクス主義者だということ。
前置きが長すぎですな。
まず、別荘にやってきたサラ(シャーロット・ランプリング)の
穏やかな日常が描写される。
この時、世界も、マルセル(マルク・ファヨール)も、
サラに対して穏やかだ。
しかし、ジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)の登場で
サラの日常はかき乱される。
この時、サラとジュリーの関係だけが変化していくわけではない
という点が重要だ。
サラは世界を感知する感覚受容器として存在する。
身の回りの物や人が変わっているわけではないのに、
風景はよそよそしくなり、
リビングは官能的な空間となってあらわれる。
マルセルは、登場のたびに全く違った人物として現れる。
これは、彼がそういう人物だ、というよりは
彼と会うたびにサラが変化しているために
彼女の目に別人のように写っていると言うべきだろう。
そして最後には、サラの観念が世界を侵食する。
ジュリーの殺人をまるで自分がやらせたかのように受け入れ、
ついにはジュリーさえも自らの空想の産物にしてしまうのだ。