ニキ・カーロ「クジラの島の少女」

祖父(ラウィリ・パラテーン)は
孫娘への愛情と伝統との間の板ばさみになっている。
父(クリフ・カーティス)は、伝統と近代、そして
彼の父(パラテーン)への愛と反発の間で揺れている。
主人公(ケイシャ・キャッスル=ヒューズ)は
祖父への愛と、自分の存在自体が祖父への裏切りであることに悩む。

設定だけでほぼ勝ったも同然である。
これでつまらないものにはならんだろう。
伝統なしには『良く生きる』ことができないが、
さりとて伝統は昔のままの形で生き残ることはできず、
ましてや押し付けることなど不可能なのだ。
だいたい学校で国歌を無理やり歌わされた高校生に
国を愛する心が芽生えるなんて、本気で考えてるバカがいるんですか?
…って話題がそれましたね。

えー、何が言いたかったかと言うと
これはマウリ族固有の問題であると同時に
現代のどこの国でも起こっている
普遍的な問題でもあるということ。
と言うより、個別の問題を普遍的問題に昇華したのは
カーロの戦略性なわけですけど。

もちろん、この映画のような形での
伝統との美しい和解が現実に起こることはないだろうし、
この和解の物語を成立させるのは
なんと言ってもキャッスル=ヒューズの天才によるもので、
(まるで泳いでいるような、祖父との自転車のシーン、
「立ち去れ」と言われたときの表情と、去っていく後姿…等々)
これが映画としてしか成立しない、
ということは忘れるべきではないのだが、
芸術は人の生に射しこむ光であって
この光に救われることは、現実に伝統と和解する上でも
大きな希望になるはずだと思う。


補足。
君が代が作られたのは明治になってからで
たしか外国人の作曲家が作ったんじゃなかったろうか。
近代天皇制を作ったのも明治の元勲たちだ。

たぶん、マウリだって事情は似たようなものだと思うが、
過去の亡霊が現代を圧迫しているのは
世界中の民族で共通の問題だと思われる。

それを、近代になって作られたフェイクである、
と暴き立てたところで、問題は解決しないのだ。