最終形態と生成過程

指揮者のチェリビダッケは音楽の一回性というものを信じていた人で
生前にレコーディングをほとんど行わなかったことで有名です。
生演奏は、と言うか音楽は一回限りのもので
それを録音して何度も再生可能にするのは不純である、
という思想によるものなのでしょう。
まぁ彼の死後、残ってたライブ音源がいっぱい発売されちゃいましたけど。

表現行為は当然のことながらアウトプットを必要としていて、
作品という形でなされることが多いですが、
音楽ではレコーディングされた物か、
ライブ演奏の二種類に大別されることになります。

その二つに共通することは、
音が鳴った時点で、それが最終形態であるということ。
レコードは何度でも再生できますが、
その一回々々で必ず別の音を聴いていますから、
再生するたびに、その時点での最終形態が表れると言っていいでしょう。
ちと無理やりかな(笑)

その最終形態に、音楽家達は抵抗を続けてきた
と言っても過言ではありません。
楽譜というものは、音楽の生成過程を
過程のままにアウトプットとして刻み付けたものですし、
レコーディング技術も、それまで再生不能だった音楽を
再現可能なものに変える為の技術だったと言えましょう。

さて、いきなり私事でありますが、
僕はコンピュータ・プログラムによって
(リズムやメロディなどの)パターンを生成する、
という方法で作曲をします。
ここまで読んでくださった方にはお分かりと思いますが、
これも音楽の最終形態に対する抵抗の試みです。
もちろん、生成された曲が最終形態である、
ということに変わりはないのですが、
いかに生成過程そのものを最終形態の中に刻み付けるかが
僕の勝負どころだと思っているのです。

友人が自主制作するオムニバスアルバムに一曲参加させてもらう予定で
そのためのプログラムが九分九厘完成しているのですが、
完成したプログラムは、乱数を使ってパターンを変化させるので
実行するたびに別パターンの曲ができることになるのです。
今、完成形としてわたすものを選んでいるのですが
何曲聴いても『これでいいものか…』と悩んでしまいます。
まぁ物を作る人なら誰でも経験があることだと思いますが。

さて、今日の結論と言うか、なぜこんなことを書いたかと言うと
自分では『生成過程を最終形態に反映させる試み』
だと思っていたことが、実は
『最終形態を自分で決めるのが嫌だから
コンピュータに選んでもらいたい』
という優柔不断な性格の反映でしかないのではなかろうか(笑)
と、ふと思ったからなのでした。