藤沢周「ブエノスアイレス午前零時」

この小説では、距離(具体的な、というよりは抽象的な)が
キャラクター達からエロスを引き離している。
主人公のカザマは東京で広告代理店に勤めていた時と
山村の雪国でホテルの店員をしている今の自分の距離を
常に意識しながら生きていて、
例えば当時つけていた香水の臭いと
今の自分の温泉卵の臭いの違いだとか、
ラジオから流れる現金輸送車襲撃のニュースと
今、車を走らせているカザマの余りにありきたりな日常との
対比の描写などに具体的に表れている。

もう一人のメインキャラであるミツコも
昔、本牧で外国の船員と恋をしていた若い頃と
盲目のボケ老婆となった現在との距離を
日本とブエノスアイレスとの距離という
途方もないスケールで捉えている。

しかし、お楽しみはこれからであって、
ミツコは痴呆による混濁によって
自分が田舎の旅館にいるのか、本牧の港にいるのか、
はてはブエノスアイレスに居るのかさえもわからなくなっている。

そして、現在と過去、日常とエロスの間を隔てていた
あの忌まわしき距離の感覚を喪失し、恍惚を取り戻す。
ここら辺の描写はやっぱり文学だからこそできることで、
映画なんかでは難しいんでしょうね。

そして、ミツコの恍惚にカザマも段々と感染していき、
距離の感覚を失い、ついにはアチラの世界に連れ去られてしまうのだ。
小説の最後の文は『ブエノスアイレスは雪がさらに激しくなる』である(笑)