オリエンタリズムの射程

姜尚中は「オリエンタリズムの彼方に」の中で、
フーコーの「狂気の誕生」をとりあげ、古典期には
『狂気は本質的に理性の否定であり、その存立そのものへの脅威とみなされた』
のに対し、近代においては
『狂気から一切の余白を取り去って監禁による治療の対象に縮約してしまうことになった』
と整理している。

イード及び姜にとって、オリエンタリズムとは
上記の狂気の他、病人、貧乏人、女、子供、と同じく
システムによって監禁され飼いならされた他者としての『東洋』
ということになるわけだ。

音楽におけるオリエンタリズムと言えば普通は、
民族音楽からかっぱらってきたような妙に異国趣味的な音楽
喜多郎とかディープ・フォレスト)を指すわけだが、
フーコー的な視点から、つまり音楽における他者、
という視点から捉えることもできるのではないか。

例えば、ノイズミュージックとオリエンタリズム
この二つは一見なんの関係もなさそうだが、
ノイズを音楽における他者として捉えると少し違ってくる。
ノイズミュージックとは元々は音楽の音ではないノイズを
音楽の中に囲い込み、飼いならすものだとも言えるわけだ。

ノイズミュージックの創始者たち
スロッビング・グリッスルから、さかのぼればケージまで)に
楽音/非楽音(ノイズ)という分割に対する
真摯な批評的意識があったのは疑いないが、
目新しい(耳新しいと言うべきか)音として
安易にノイズを使うのはいかがなものか。
(具体的に誰、というわけではないのだが)

それは、西洋のオリエンタリストが
東洋文化に理解を示しながらも
西洋/東洋という分割を疑わないように、
楽音/非楽音という、本来はなんの根拠も無い分割を
固定的なものにしてしまう危険も孕んでいるということだ。