ダブルドラゴン

先日、日記のカテゴリー分けってのをやってみたところ、
『音楽』に分類する日記が1つしかなかったんです。
まぁ音楽のことをあまり書いてないことは
自分でも知ってたんですけどね。
なんか書こうとは思うけど、なかなか難しいのですよ。

というわけで、今日は無理やり音楽の話につなげるぞ!
石川忠司「現代小説のレッスン」より、

村上龍は、「アクション」とは人間の動作の逐次的・機械的な連続でできているのではなく、またアクションを行う当事者の「リアル」な実感のたぐいが重要なのでもなく、それは徹頭徹尾、多様にピントの合わされた多角的なショットの不連続的で飛躍的な連続によってできているのだと正確に理解している』

また、石川は村上龍の小説について、
『人間と彼(彼女)の知覚とを、文字通り物理的な意味で、完全に異なった<実在>として描く』
と言っている。

この分析は村上の盟友、坂本龍一にも当てはまる。

例外は色々あろうが、伝統的な西洋音楽及び、
現在の一般的なポピュラーミュージックにおいては
単一の主題がその音楽全体を貫き支えるという形をとる。
それは『一人の人間の主観』というものと
『彼(彼女)の知覚』の一致を前提としているのではないか。

坂本は、その一致が虚構であり、
人間の知覚は『多様にピントの合わされた多角的な』もの
であることを知っている。
坂本の曲は不連続と飛躍によって出来あがっている
と言ってもよいが、
時間芸術である音楽においても
人間の認識はリニアなものではなく
多角的な音のアクションを
無時間的(という言い方は適当でないかもしれない)な
捉え方をしているからなのだろう。
(昔、坂本が大森荘蔵ベルクソンの時間論について
対談で話していたのを思い出す)

ところで、上記の引用から容易に推測されることだが
村上はアクションについてのこのような認識を
映画から得ているのだと思うのだが、
坂本もそうなのではなかろうか(これは完全に推測)
村上龍の映画は一本も面白いと思ったことがないが
彼が映画を撮り続けるのはよく理解できる。

村上は映画を撮ることを小説の糧にしているフシがあるので、
坂本もつまんなくてもいいから
リハビリのために映画を撮ってはどうだろうか。
そして復活してほしい。