アルノー・デプレシャン「そして僕は恋をする」

昨日の続き。
人間、感情のブレがあって当然なのだが、
あんまりブレすぎると神経症になる。
ポールには好きな女が3人いて、
ヴァレリーは同棲してる男の他に恋人がいる。
ただ一人のパートナーへの永遠の愛
とかいうものを否定する気はないけど、
いつでもそんな恋愛ばっかりではないだろう。

ただし、こんな恋愛もアリだとは思うが、
10年付き合ったポールに捨てられるエステルとか
ヴァレリーに大学にまで押しかけられるポールの立場
ってものを考えると、やっぱりぞっとするわけで、
単一の感情のモード(一夫一婦制)
ってやつは、社会的なシステムとしては有効だなぁとも思う。

しかし(再びしかしだ!)社会的なシステムとして有効だというのは
絶対的に正しいということではない(あたりまえだ)
第一そういうものはフィクションとしては退屈だ。
ブスブスと発酵した感情をぶつけ合うような
痛ーい恋愛モノだってたまには観たいのだ。

指を折った旧友の前でぽっつーんとたたずむポールとか
笑いながら妊娠検査をするエステルとか
身がよじれるようなこの映画の痛さをを
純愛ブームに踊らされてる人に見せてあげたい。
(いやさ、純愛もいいもんだけどさ)

例えば、ソダーバーグなら
線的に流れる時制をとりあえず仮構した上で
前後のエピソードを意図的に現在の時間に挿入するのだが、
デプレシャンは回想シーンを何の前触れもなく挿入する。

普通なら回想は回想だとわかるような工夫がされるものだが
ここではほとんどお構いなしである。
服装とか髪型が違うから、現在の話ではないらしい、
というのが辛うじてわかるくらいだ。

おそらく、各エピソードをきっちりと結びつける
物語の軸のようなものを作らないことによって、
ポールたちの神経症的な恋愛感情を
画面の表面に定着させようとしているのだろう。