でっちあげ

超越的な支持行為は、第三の審級っていう
超越的な主体によってなされるそうな。
しかも第三の審級には実体がないそうな。
なんて言うか、わかりやすいけどつまんない結論に落ち着きそう。
大澤は明晰だけどつまらない、
って評判は目にしたことがあったけど
ちょっとわかった気がする。
いや、十分に面白い本なんだけどさ。

おもしろいなと思ったところをピックアップ。
『現在の指し示しが、同時に、「先行的に指し示されていた」という自体そのものを産出するのである。』

ここで言う『現在の指し示し』を
現前している作品(演奏でもCDでも絵画でも映画でもよい)
と言い換えることができると思う。
『先行的に指し示されていた』ものっていうのが、
音楽史や映画史のごときもの。

目の前に現前した作品が、今まで積み重ねられてきた
様々な音楽のアーカイブの集積にあらたな回路を産出する。
(実際には音楽史というような実体があるわけではない。
ヴィトゲンシュタインが『やりながら規則をでっちあげる』
と言ったように、あたかも音楽史的文脈が存在していたかのように
その場ででっちあげられるわけだ)
音楽における美が発生する一つのメカニズムではあると思う。

この場合は芸術の主権者は
今、現前している作品を含む作品群、
そしてその作品群が構成する第三の審級ってことになりますね。

もう一つ。
『社会システムは、外部自身を、自らの内的な部分として構成・加工することによって、著しい適応能力を得ることができる』

現前した作品が、音楽史の外部にあるようなものでも
その作品自身を含む形で新たな回路を産出することによって
音楽史自身を再構成する、ってことですね。

ちょいと疑問なのは、
グリッド・グループの境界が強い音楽的感覚をもったタイプの人、
(例えばモーツァルトしか聴かないとか)
にもこれが適用できるのかってこと。
そういう音楽の聴き方があるのはわかるってるんだけど
上手いこと説明できないのがもどかしい。