パウル・シェーアバルト「永久機関」

半分頭がいかれた小説家兼エンジニアが
永久機関の開発に挑んだ日記。
訳者のあとがきにあるように
『彼はユートピア的なものと手近に実現可能なものとをいちいち厳密に区別している』のだが
この二つの間を時に自虐的に
時に空想にふける子供のように行き来する
シェーアバルトの奇跡を追うのが楽しい。

『それだから経験の対象は、決してそれ自体与えられているのではなく経験においてのみ与えられているのであって、経験をほかにしてはまったく実在しないのである。月に住民がいるかも知れないということは、かって人間が一人として彼等を知覚したことがないにしても、確かに承認せられねばならない、しかしこのことは、我々が経験の可能的進行において彼等を見つけ得るかもしれないということを意味するにすぎない。経験的進行に従って知覚と関連している一切のものは、現実的に存在するからである。従って月の住民は、私の現実的意識と経験的に連関を保っていれば現実的に存在すると言ってよい。しかし彼等は、それだからといってそれ自体、即ち経験のかかる進行をほかにして現実的に存在するのではない。』(カント『純粋理性批判』篠田英雄訳)

これは岡崎乾二郎が書いた「確率の技術 技術の格律」という文章
http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/module/Study/OKK030811_probability1/index.html
からの孫引きなのだけれど、
シェーアバルトにおけるユートピア的なものというのは
カントの月の住人と同じものだと思われる。

岡崎はカントにとって月の住人は物自体であり
孔子荻生徂徠の言う鬼神と同系のものであると言う。
このことは一神教的なものによらずに
芸術の永遠性というものを考える可能性を示すもので
事実、シェーアバルトにとっての永久機関
その名の通り永遠を約束するようなものだろう。
これは僕にとってはとても勇気が湧く話だ。

ただしシェーアバウトの生活は悲惨なものだったようだ。
永遠なんてものを追い求めれば
彼のようになってしまう可能性は十分にあるし
そもそも永遠性を仮構することは出来るかもしれないが
シェーアバルトみたいに永遠そのものを作り出す
なんて発想はちょっと不可能だ。
だけど、その不可能性に挑むさまこそが
この書物のもっとも美しい部分なわけで
自分がそうなれるかって言うとちょっと無理な気もする。
う〜む。