ジャック・ドゥミ『ローラ』

はじめて観た時から、そして何度観ても変わらない僕のオールタイムベスト。
何度も観ても…いや、思い出すだけでも勃起してしまいそう…


この映画のすばらしい叙情性は、矛盾するようだが、クールでドライな描写のさわやかさに拠っている。
ひとつひとつのシークエンスを見れば、それらは余りに甘く叙情的だ。
無表情だがロマンティスト、時折見せるはにかんだ笑顔の奥に深い孤独を湛えローラン。
コケティッシュな表情と16の小娘のような幼さを同時に見せるローラ。
ローラとは逆に、14の子供の顔と大人びた背伸びが可愛らしいちびのセシル。
すかした気取りの中にも優しさと寂しさを隠さないフランキー(最高にイカしたおにーちゃん!)
あふれんばかりの光と、顔も見えないくらいの暗い影の中に彼らの生き生きとした表情を捉えるラウル・クタールのカメラ。


しかし、それらの場面を繋ぎ合わせて物語を作っていくドゥミの手つきはあくまでもクールだ。
例えばそれは音楽の使い方にあらわれる。
ミシェル・ルグランは、スウィートなメロディで場面を盛り上げたかと思うと、クールなリズムで鮮やかに場面を転換させる。
まさにスウィートかつクール。まるで無声映画のようである。


それから展開の早さ。
ミシェルの帰還、親子の再開(しかも二組!)、ローランの旅立ちはほぼ同時に起こる。
そのひとつひとつは十分に甘いのだが、4つのエピソードを短く連続させてしまうことによってべったりとした甘さにならずに、むしろクールで小気味のよい一連のシークエンスとして描写してしまう。


ローラとローランの別れのシーンでは、まず床屋のガサ入れのシーンから一転、カメラの回った先にローラの姿を捉え、そこにテーマ曲をかぶせて劇的な再開を演出するのだが、
それを涙々の今生の別れのシーンにしてしまわずに(とか言いつつ僕は泣いているわけだが)最後は笑ってキスして明るく、しかし切ないシーンに仕立て上げる。
笑顔でさりげなく別れるからこそ二人がもう二度と会わないだろうという切なさが胸にしみるというものなのだ。


ローランの初恋は思い出として彼の孤独な胸の中にしまわれ、ローラの初恋はもはや恋ではなく愛と言うべきものに変わっていく。
ちびセシルの美しい初恋がきらめいているのもこの一瞬のことであり、やがて過ぎ去っていくだろう。
だが、その一瞬の瞬きはクタールの写し出す港町の光のようにきらめき、ルグランが音を紡ぎあげるように、その一つ一つのシーンの連鎖は繊細なメロディを奏で、信じられないほどに美しい一本の映画となって、永遠の初恋のように僕の胸をときめかせ続けるのである。


はてさて。
あやしげな運び屋の仕事を引き受けたのはいいものの、
雇い主の床屋のオヤジはダイヤの密輸で逮捕されてしまい、
手に入れた偽造旅券で当てもない旅にでることにしたローラン君。


ここでは「ダイヤの密輸」がミソである。
というのも、数年後か10数年後かはわからないが、ローランは宝石商としてシェルブールの傘屋に現れるからである。
当てのない旅先で、密売屋の偽造旅券を使って何をしていたのか想像するのもなかなか楽しい。