黒沢清『叫』

僕たちが今現在において感じている意識というものは、この映画の冒頭で殺人事件が起こる埋立地のようなものである。
土が盛られ、道が引かれ、マンションが建ち、木さえ植えられたりもするのだろうが、
そのような景観はかりそめのものでしかなく、そこが海だった記憶は常に地中深くに留まり続け、
ちょっとしたきっかけで脆い地盤は液状化して海だった頃の記憶が顔をのぞかせる。


この映画には「忘却されたものの回帰」という精神分析的図式をとりあえずは適応できるだろう。
神経症における心的外傷は、外傷を引き起こした出来事のすぐ後ではなく、一旦忘却されて隠蔽された記憶として留まり続け、後になって歪曲されたかたちで回帰する。


神経症は実体をもった何かではなく、隠蔽された記憶の兆候としてのみ現れる。
例えば、「ユダヤ人によるモーセ殺害」という忌まわしい記憶は聖書のどこにも記載されることなく隠蔽されているのだが、
フロイトは古代福音書の矛盾した記述の中からその痕跡を拾い集め、その事実を再構築していく。


それに対し黒沢はあろうことかその記憶を女の幽霊という形に実体化させてしまう。
おそらく黒沢は幽霊の実在を(より正確には、幽霊が実在してしまうかもしれないという世界の不確かさを)信じているが、
まさか幽霊があの葉月里緒菜のようなものだと思っているわけではないだろう。


彼女はまず役所広司の忘却された過去として画面に登場し、
次いで15年前に療養所に住んでいた女になりかわり、
人間ではなく忘れられた湾岸の土地の記憶となり、
最後には「忘却された記憶」という殻をも脱ぎ捨てて、わけのわからないただの幽霊になってしまう。


地面を平行移動し、スーパーマンのように空を飛び、超音波のような叫び声をあげる幽霊を見て、僕たちはただ笑うしかない。
それがどれほど荒唐無稽なものであろうとも、それが画面に映っている限りは実在してしまうのだと言わんばかりの映画に対する黒沢の大胆な信頼。
そして、それを許容してしまう映画というものの恐ろしさをまざまざと見せつけられる。


葉月里緒菜がほとんどギャグなのに対して、この映画の恐怖は、
他の水面はどうともなっていないのに、一つだけかすかに震える水たまりや、
テーブルの上の弁当に横にぽつんと置かれたペットボトルや、
駅が空いているのになぜか動いていないエスカレーターなどといった
まだ明確に意味を形成していない兆候にこそ現れている。


それらは、今はまだ何の実体も持っていないが、
フロイトが患者やテクストの中から何かの痕跡を拾い集めてくるように、
黒沢の手によって一つ一つ拾い集められ、映画の中に投げ込まれ、
人間や民族のもつ無意識のように画面の奥底でふつふつと煮えたち、
また新たな幽霊を形成すべくうごめいている。
黒沢清はさながら映画という無生物に生命を与えようとするフランケンシュタインとでも言うべきだろうか。


関係ないけど(一応ネタバレ)
黒沢は女を描くのが苦手だと以前から言われている。
この映画も例外ではなく、50過ぎの役所広司の恋人役を小西真奈美がやるという時点で「オヤジの妄想全開」という感じだ(笑)


子供のように甘える役所の頭をママのように優しく撫でるわ、
何も聞かないでくれなどと身勝手なことを言う役所に従って黙って一人で旅立つわと、
いいかげんにしろと言いたくなるようなキャラクターなのだが、
最後に彼女が文字通り「オヤジの妄想」であることがわかり、やられた!と思うのだった(笑)


下手だからと言って小細工せずに、
下手なことを逆手にとってこんなオチをつけてしまう黒沢はやっぱりすごい!