セドリック・クラピッシュ『スパニッシュ・アパートメント』

フィリップ・ガレルにとっては68年の経験とそれに続くニコとの生活はとても大きなもので、おそらく彼にとって現在とは68年の延長として考えられるような時間の中にある。
彼にとっては、68年を描くことは現在を描くことであり、現在について何か考えるなら68年との関係において考えるしかない。


朝鮮系中国人であるチャン・リュルは、共産主義国家の中で少数民族として生きており、
「階級」という古臭い概念も、彼にとっては日々リアルに感じているような普通の感覚なのではないかと思う。


現在のアーティストがセザンヌやバッハの技法をそのまま使うわけにいかないのと同じように
先進資本主義国のフランスに生まれ、60年代を大人として経験していないクラピッシュにとっては、
ガレルやチャン・リュルの映画は、たとえそれがいくら面白いとしても、自分でやるわけにはいかないような種類のものなのではないかと思う。


主人公グザヴィエは、何の目的もないまま親のコネでスペインに留学し、多国籍のアパートで共同生活をして、騒いだり傷ついたりしながら自分を見つめる。とまぁ要約するとそんな映画なのだが、
ガレルやチャン・リュルのようには社会とのリアルな接点を生まれつき持っていないクラピッシュのような立場の作家とにとっては、
たとえ「自分探し系」などとバカにされようとも「己は何者なのか」という問いから出発せざるを得ないのは、映画を作る前提条件なのである。


さっき黒沢清『叫』を観てきたのだが、
アプローチはまったく違っても、自分のアイデンティティを問うことから始まるという点、
そのアイデンティティが壊れる地点を肯定するところで終わる点、
それをいかに映画として描くかという問題意識など、共通する点は多い。
まぁ黒沢のほうがクレバーではあるが、彼はヴェンダースより後の映画作家の中では頭一つ抜けており、比べるのが可哀想だというもので、クラピッシュだって相当に優秀である。


黒沢については明日にでも書くとして、クラピッシュのアプローチだが、
彼は肝心要のグザヴィエの葛藤をまったく描かない。
パリから訪ねてきた恋人とが帰国するシーンでは、位置関係だけで二人の間の距離とすれ違いを見せ、
ウェンディと弟のケンカでは、弟が出て行くシーンと仲直りした二人が泣きながらじゃれるシーンを直接繋いで仲直りの経過をすっとばし、
「"モナムール"から電話よ」というセリフ一つで、グザヴィエと住人たちとの関係、"モナムール"と呼ばれる恋人との距離を示す。


ひっきりなしのナレーションはちょっとウザいのだが、
説明をせずに見せるべきところは画として見せ、かつ、見せずに想像させる余地もちゃんと残してあるのが「映画的」だと思う。


そういう小洒落たタッチの描写を軽薄だとバカにすべきではない。
もともとグザヴィエにとって、アイデンティティが見つからないということは、
感じてはいるが意識されているようなものではなく、
なんとなく旅立った先でなんとなく自分に問い、なんとなく否定されるようなものであって、深刻に自我を揺るがすようなものではないのだ。
そういうぼんやりと浮ついている感じこそがクラピッシュのリアルさなのである。

関係ないけど。
アレッサンドロが間違って冷蔵庫にしまったメガネを朝起きてきてかけるシーンがあるが、
そういう場合、彼のように一発で見つけることなどなく、
「メガネ、メガネ」とのび太ムスカのように探し回ることになる。
一度、パンツの引き出しの中に入っていたこともあった。


財布だの書類だのと違ってやっかいなのは、メガネがないとほとんど何も見えない状況で探さなければならないことだ。
もっとも僕は2本持っているので、見つからないときはもう1本をかけて探すことができる。
そのために2本持っていると言っても過言ではない(嘘)